‪「アジア」はどう語られてきたか

‪「アジア」はどう語られてきたかという問題は、子供のときにオーストラリアから帰ってきた「わたし」はどう語れてきたのかというオブセッションにつかれた私においては、高校生のときから自覚していた問題なのであった。アイルランドとイギリスから帰ってきたとき、この問題を自分のためにもかんがえておかなければならないだろうと予想していたが、二度目の帰還のときはもうすっかり自分のことはどうでもよくなってしまっていた。だけれど、まだ話すべき答えを出せないのだけれど、若い台湾と中国の留学生とともに考えようとしている。「わたし」の中では、「われわれ」はどう語れてきたのかという問題意識に移行している。「アジア」はどう語られたかについて大まかに整理すると、明治時代に芸術史が自らを中国から位置づけるときに現れたのが東亜概念である。政治上の問題を孕むその概念の限界を乗り越える為に、多としての普遍主義としての東アジアが指示されることになった。だけれどグローバル時代の現在では、帝国概念かその等価の概念に包摂されてしまった感がある。文化論的言説がデモクラシーを抑圧してきたのである。今年は、巻き返されたままではいけない、いかに巻き返すかというこの危機感の中で、子安先生が呼びかけた岡倉天心を訪ねるという思想史的遠足をおこなったとわたしはひそかにおもっていた。実際に、現地で、芸術史がいかに自らを喋りはじめたかを問うたかを超えて、思想史はどのように自らを語ることができるのかを考えることになった。西欧の線引きから自立しようとして、岡倉天心は白紙の本としての東洋の理想について語った、と同時に、白紙の本としての「アジア」はどのように語ることが可能なのかを問う思想であったことを発見した。芸術が芸術であるために要請されてくる普遍性とは何か?「アジアは一つ」(岡倉)といわれるとき、問題となってくるのは、日本をどう位置づけるかという問題であるが、それは、中国とインド、アジアの芸術作品が辿り着く到達点としての場として指示されている。ありうべきあらゆるものの理想の頂点にいたるとき、芸術作品たちが到達するのは日本という中心にではなく、日本を制限するところのものの縁である。そういう意味での人類が定位する場をアジアからさがせという方向性をもった思想を天心から読みとれるかどうか。まだ巻き返しとはいえない手がかりに過ぎず何もないかもしれないけれどそんなことは後の世代が判断すること、はじまった思想史的遠足は思想史的言説へ行く