映画史と思想史‬

‪映画史と思想史‬

• 映画は思考の形式であり、映画の歴史に思考の歴史があると発見されたとき、映画史は思想史となる方向づけをもったのであった。時間は即ち記号。時間は同一のものがないと告げるように、記号は同一性の幻想を崩していく。そういう意味で、17世紀に徂徠はすでに映画を知っていた。映画が依拠する記号の外部的存在のあり方を知っていたのであるとわたしは読んでいる。ただ思想の連続性は「時間」と表象される記号の同一性に依拠する。連続性の消失が起きるのは、名と物との不一致、つまり、聖人が人間社会に与えた名が何を指示していたか分からなくなるときである。ほかはないのだ。言説においても同一性はない。外部に依拠しながら、知識人と共に言説は、白紙の本、議論する非連続性のスクリーンへ行く‬