「人間の近代」はいつ終焉するのか?

‪「画家は絵から心もちさがったところにいる。モデルに一瞥をあたえているところだ。あるいは、仕上げの筆を加えようとしているのかもしれない。だがもしかすると、最初のひと筆がまだおろされていないのかもしれない」。この「言葉と物」の冒頭における画期的視点は最後まで貫かれているか?最後の章は精神分析文化人類学が言及されている。この二つほど、人間の中心性から距離をもった知はなかった。同一性が成り立たないのは、記号とテクストだけではない。構造も同一性を崩していくのであり、したがって思考に不連続性をもたらす。構造は常に言説のかたちをとる。いかに、言説に書かれた近代を相対化していくか?、近代の意味を問う方向で言葉が集中するとき、近代と共にある人間の自明性が消滅するだろうか。最終章で告げられたフーコの言葉に実をあたえるために、彼が問題とした「近代」というものがアジア近代においていかに機能したのかをみる必要がある。平等についての究極の思想をもっていたがそれを社会的に実現する方法を知らなかったアジアは、500年先行した近代の出発をもっていたヨーロッパから何を学ぶのか?(左翼右翼とも言えないような非常な短期間であったにせよ)、アジア思想は近代の植民地主義をいかに克服していこうと考えたのか?軍国主義の方向と全体主義の方向とが一致したとき、天皇ファシズムは「教育勅語」「靖国言説」と共に、2000万人の命を奪ったことになった。「美しい国」の鬼神は、「(普通の国になったら戦前の国家になるしかない)普通の国にならない」とする誓いの言葉に定位することによって消滅したのではなかったか。この誓いを我がものにする言葉の集中のもとに、人間の近代が消滅する可能性があった。だけれど近世の『童子問』を『教育勅語』の原型だと言う近代主義者の明治の前を考えるとき明治維新のことしか語れないとする思考の貧困な反復を思う。「帝国の経験」は帝国主義の近代を指示しかねない危険もある‬