読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

だれが『教育勅語』を語るのか

教育勅語』の「天」は教育によって国家に意味を与えると読める。ここで臣民は国家の有機的部分をなす。さて「天」は「天」の意味をもつのは、国家が教育を介して「天」に意味を与える事実だけによる。しかしそれは無理というものだ。国家は国家自身にしか意味を与えることができないのだから。最初から、『教育勅語』の内部のなかで「天」といわれるものは天ではなかったのだ。全体主義の方向と一致した戦争へ行くと、究極的に国家は自らのために教育するだけである。ここに、アジアの人びとと共存していく要請された方向に構成される「学び」はあるだろうか?「良いところもある」というような話では全然ないんで...

書きそこないの文になってしまうかもしれません。『教育勅語』についてかんがえることと、誰が『教育勅語』を語っているのかをかんがえることは違います。明治の保守的なエスタブリッシュメントがそれを書き、文部官僚が学校に普及させまた解釈する権力を「国体」概念をいう憲法学者と共有していたわけです。なんというか、近代国家は自らを表現する文化をもっていないというのは一考に値するとおもってます。そうみていくと、近代国家が「古代」に仮託して自らの正しさを文化論的に語っているというようなことの無理がどうしてもみえてしまうのですね。『教育勅語』は、文化と等価である制度であります。だけれど『教育勅語』は文化論的こだわりを捨てれないのです。たとえば、『教育勅語」に書かれている全面的に現在に向かってくるような「万世一系」的起源の正しさは、「天壌無窮」の「天」があたえるという事実にだけよるのです。そこまで原理主義的に構成してしまっていたとすると、避けられなくなってくるのは、そもそも天は自身の正しさを与えるのかというような問いです。天は自身に正しさを与えることなんてできるのでしょうか?この問いを語る行為は危ういかもしれません。思考を無理に起源のこだわりに向かって統合していくとき、これとはその反対の方向に行くという解体というか、脱神話的なパラドックスがおきてくることもあり得るからですね。天は自身に根拠を与えるかそれとも与えないか?これについては、天より下に位置する国家を呼び出すことによって、いかにも古代から続くという民族精神を指示して、国家というものが解決した思考の対立するネガティヴな分裂に戻る必要がもうないのだというかもしれません。ですけれど、いうまでもなく、これは意味の世界の統合をいう顕著に近代的な捉え方です。またいくら国家による統合を物語っても、この物語は、古代テクストが隠蔽しなかった古代王権の成り立ちの困難さの痕跡を覆うことでしか成り立ち得ない言説ではないでしょうか。