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「性は生の質なり」(子安宣邦、徂徠学講義「弁名」を読む 第十一講)

‪性は生の質なり‬

‪ ‪・性とは生の質なり。宗儒のいわゆる気質なりものはこれなり。その性は本然有り、気質有りと謂うものは、けだし学問の為の故にこれを説く。また孟子誤読して、人の性は皆聖人に異らず、その異なる所のものは、気質のみと謂い、ついに気質を変化して以て聖人に至らんと欲す。もしただ本然のみにして気質無からしむれば、すなわち人人聖人なり。何ぞ学問を用いん。またもしただ気質のみににして本然の性無からしむれば、すなわち学ぶといえども益なし。何ぞ学問を用いん。これ宗儒の本然・気質の性を立つ所以なり。然れども胚胎の初め、気質すでに具われば、すなわちその本然の性なるものは、ただ天に属すべくして、人に属すべからざるものなり。また以て理は局せる所あることなく、気質の局せる所といえども、実に局せざる所のもの有りと存すと為せば、すなわち禽獣と人と何ぞ択ばん。故にまたこれを正通・偏そくの説に帰す。しこうして本然の説終に立たず。妄説と謂うべきのみ。‬

‪性はよく移る‬

‪伝に曰く、「人は天地の中を受けて以て生ず」と。詩に曰く、「天 ()民を生ず。物あれば必ず則有り。民のいをとる。この懿徳を好む」と。孔子これを釈して曰く、「物有れば必ず則有り、民のいをとるや、故にこの懿徳を好む」と。文言に曰く、「利貞とは性情なり」と。大伝に曰く、「これを成すもの性なり」と。これみな古人の性をいうものなり。合してこれを観れば、明らかなること火を観るがごとし。けだし霊は頑の反なり。然れどもまた宗儒の「虚霊不昧」の謂に非ず。中は偏の対なり。然れどもまた宗儒の「不偏不い」の謂に非ず。みな人の性の能く移るを指してこれを言うなり。これを中に在るものの持って左すべく、以て右すべく、以てまえにすべく、以て後ろにすべきにたとうるなり。物とは美なるを謂うなり。美にして必ず倣効するは、これ人の性なり。これまたその善く移るを言うなり。孔子また「上知と下愚は移らず」と曰うも、またその它はみな善く移るを言うなり。貞とは変ぜざるなり。人の性、変ずべからざるを謂うなり。「これを成すものは性」とは、その成就する所、おのおの性に隋いて殊なるを言うなり。‬ ‪人の性は万品にして、剛柔軽重、遅疾動静、得て変ずべからず。然れどもみな善く移るを以て性となす。善に習えばすなわち善、悪にに習えばすなわち悪なり。故に聖人、人の性に率いて以て教えを建て、学びて以てこれを習わしむ。その徳を成すに及びてや、剛柔軽重、遅疾動静は、またそのおのおのその性に隋いて殊なり。唯下愚は移らず。故に曰く、「民はこれに由らしむべし、これを知らしむべからず」と。故に気質は変ずべからず。しこうして()の九徳、周の六徳は、おのおのその性を以て殊なり。あに然らざら#にゃ。‬

‪先王の教えは、詩書礼楽なり。たとえば和風甘雨の万物を長養するがごとし。‬‪万物の品殊なりといえども、その養いを得て以て長ずるものはみな然り。竹はこれを得て以て竹を成し、木はこれを得て以て木を成し、草はこれを得て以て草を成し、穀はこれを以て穀を成す。その成るに及びてや、以て宮室・衣服・飲食店の用に供して乏しからざるは、なお人の先王の教えを得て以てその材を成し、以て六官・九官の用を供するがごときのみ。そのいわゆる善に習いて善というも、またその養を得て以て材を成すを謂う。これを豊年の穀は食らうべきにたとう。悪に習いて悪というも、またその養を失いて以て成らざるを謂う。これを凶歳のひは食らうべかざるにたとう。すなわち何ぞ必ずその気質を変じて以て聖人に至るを求めんや。これ它無し。宗儒、聖人の教えに循わずして、妄意もて聖人たらんことを求む。また先王の教えの妙を知らず、すなわちこれをその臆取りて、「持敬」「窮理」「天理を広めて人欲を去る」の数種の工夫を造作して、遂に以てその本然・気質の説を立つるのみ。仁斎先王の活物・死物の説は、誠に千歳の卓識なり。故にその言終に未だ‬ ‪明ちょうならざるものは、あに惜しまざらんや。‬