認識は常にはっきりした目的を追及しているが、 目的が達成されると終わる。 これに対し、思考は、その外部に 終わりもなければ、目的もない。 結果を生み出すことさえない。 芸術のなかで思考に一番近いのは たぶん詩だとハンナアーレントはいう。 だが詩とて自らが消滅することがないようにと、 なんとか肉体が触れるものを必要とした。 墓標のように、詩は触れることができるものに定位して、 永遠性をもつ。ものとしての言葉に化ける。 永遠に記憶されるために。 そうして詩に興り、礼に立ち、楽に成る。 だが永遠とは何か?それが究極の問題である。 ヨーロッパの神性という永遠の思想は、 アジアのわれわれを蹟かせる。 だれが永遠をもとめるのか? 愛と意志と記憶である、 アウグスティヌスは言うだろうか。 理に尽くされない理の外部にあって、 究極的に依るべきもの。それが永遠? では記憶とは何か?愛が裏切られたり意志が挫かれたり、 この記憶のなかに囚われる と同時に、記憶というものによって 魂が救われるというか? あえて忘却の危険に投げ入れて 意味が化けて置き換えられることを待つ?祀る? 荻生徂徠の『鬼神』論を読む。 肉体が地に行って消滅してしまうが、 魂は天へいくという。魂は消滅せずして 立つためには、消滅しないものに化ける、言葉に? 否、散逸した言葉は ほんとうにそれほど消滅しないように あつまってくれるものなのか? 永遠性の観念の傍らに、ものである故に よく移るものとしての言葉の曖昧性がある