ソクラテス

ソクラテスの弁明」を読んでも、法廷でソクラテスが非難されている理由がよくわからない。嘗てゴダールが、ロッセリーニソクラテスのように、あまりにだれかれ構わず広い範囲で対話したことが危険視されたのだと評した。ロンドンのBFIで、ロッセリーニのテレビシリーズ「ソクラテス」をみた。ドラマの中で、妻が「どうして善人のあなたが処刑されなければならないの?」と泣きだすところを、ソクラテスは「ならばわたしが悪人だったほうがおまえはよかったというのか」と問う。死に無関心のように対話を止めない。そういう感じだったと思うが、この場面では、ユーモラスに、対話的ロゴスをあらわそうとしたことにやっと気がついた。さて、アジアは、古えに依拠することで距離を以て、言説化される現実世界を批判する言説を与える意義を、「論語」から学ぶことができた。そこに、ヨーロッパにおけるものとしてのソクラテスの対話的ロゴスがあるかと問うことは意味があるだろう。「論語塾」の後、アジア居酒屋でこの話題で盛り上がった。帰り道、義憤を以て世の中を批判できても、そこに対話的ロゴスを書いているかといえば、まったくそうではないこと、ネットを始めたこの7年間あらためて己の努力不足を深く反省した

アメリカをみると、トランプに対する叛逆とおなじものが安倍に対して起きないのはどうしたことだろうか。だれもが安倍が嘘を言っていることを知っている。言説の闘いはあるが、ソクラテスの対話的ロゴスの力が決定的に欠落している!?。最初から無かったとすれば、これからの時代に要請されてくるのではないか

グローバル資本主義の問題を解決するために、それを推進してきたロゴス中心主義の近代に再び依拠することは倫理的に不可能だ。後期近代においては、安倍政権に顕著な、ナショナリズムの近代が、ロゴス中心主義である。対抗する、解体-ロゴス中心主義の言説はアジアにあった。朱子学ロゴス中心主義はすでに、孔子によって解体されていた可能性がある。問題となってくるのは、子安氏が指摘するように、「論語」に対話的ロゴスが存在したかである。言い換えれば、アジアにソクラテスが存在していたかである。抵抗するためには、対話的ロゴスのソクラテスが要請されてくる