ソクラテス (続き)

ソクラテスの対話的ロゴスは、先週の「論語塾」のときのアジア居酒屋で話題として現れてきたテーマである。これは根本的に考える必要のある新しい切り口をもったテーマはないかときがつきはじめた。これについて、エルマンはジョイスの理解におけるソクラテス的(思想)闘争の側面を示唆していたことをあらためてかんがえている。(For Joyce, as for Socrates, understanding is a struggle, best when humiliating.)

さてWittgensteinにおいても対話的ロゴスが考えられていたとおもうし、彼はその対話的ロゴスに沿って書いたのである。だからRusselが自分の本の為に書いてくれた序文に大いに不満をもったのは当然で、あれでは論理学と言語の関係を言及しただけのものでしかなく、勝手に、Wittgensteinを現実世界とのかかわりとの隠者的断念に同一化しようとしているとおもったかもしれない。ある意味で、ラッセルによるこのような同一化が、現実世界の権力性を構成しているものだ。こうしたことはアジアの思想を方向づけた「論語」の読みからはじめてはっきりとみえてきたことが重要である。そしてソクラテスから近代をとらえるとどうなるのかが大切だ