21世紀と象徴天皇制を読む - 歴史/転移の構造/思想

‪何を言っても無駄だというのが乱世だとしたら、今がその乱世である。だけれど黙っていることもどうなんだろうかという感じである。長州が勝手に京都から連れてきた、明治の元勲にとっては自らをそこに表現するという政治利用できる操り人形でしかなかったものが、殆ど元勲がいなくなる帝国主義の大正から昭和において、転倒的に、価値形式的にというか、コントロールできなくなるという転移の歴史が指摘される。ベンヤミンの言葉を応用すると、文化の政治化という自己同一の言説が起きてきたとみる。今日からみると、敗戦後それをどうすることもできずGHQのもとで何となく象徴天皇として存続させることになった。戦前の国家祭祀の戦争体制をやめること、祭政一致の否定としての象徴天皇制の意義を十分に自覚せずに今日まで来たのである。だけれどアジアが信頼を置くのはここである。さて今日皇室の水平化に反発している権威主義がいくら「先例になり得る」といっても、それは一般的に「先例にならない」ことを彼らの閣議会議的な独白と彼らの都合で確認しただけのこと。見方によっては、それほど象徴天皇しか拠り所がなくなってきたというのならば、問題となっているのは、何故存続しなければいけないのか理念的に問うことなしに象徴天皇制を崩されずに支えていくことができるか。そして天皇制は国家祭祀と同様に心の問題に属してはおらず、それは明治維新から始まる構造の問題である。一人ひとりがその構造から自立できるか、ほかならない、そこからそれぞれが思想を持つことができるのではないかとかんがえるようになった