ジョイス「ユリシーズ」の近代を読む

普遍主義といえば、ヨーロッパ。その中心にフランスとドイツとイギリスがある。そういう国々の中心的近代は自らを(自らが想像した)古代に表現しようとする。日本近代と大和王権の関係がそうである。(現代人は古代劇の仮面を以て自らの姿を隠す、あるいはそれによって自らを表現しようとする。)ただし、中心があり、切り離してはならない外部がある。アイルランドの近代は、中心的近代とは異なる、非連続性の思想をもっている。例えば、古代との文化的同一性を強調してみたところで、19世紀にはゲール語は消滅しきったのだから古代を読む方法がないのである。そしてゲール語は植民地時代に、たしかに抑圧は存在したけれど、アイルランド人自身が生活の必要から捨てたのである。ジョイスの「ユリシーズ」が言いたいのは、連続しているのは、アイルランドの民の生活だけだ、そして知識人の言説のあり方から独立したような実体としての文化的同一性などが存在するわけではないということ。古代人は現代のブルームのお面やモーリーのお面を手にもっている。このことは、過去からの連続性はあっても同一性はないとということを書いたのが『ユリシーズ』であるとわたしは読む