契沖

‪契沖の名は、小林秀雄本居宣長」で知った。彼を説明した伝記を読もうとは思わないが、小林のせいでなにか気になる人物である。契沖は世に失望して、長い年月人の家で本を読んだらしい。その家は連歌のネットワークを支えていたということを昨日知った。一般的に言って、他人の家で本を読むことの意味は何だろう?わたしはそれを自分の文で書かない場合と比較したくなる。自身をその部分とする固有なもの(起源)について書きながらも、それを書く文は自分の文に依ることがない。最初から他人の文である。これは非常に人間的なパラドックスではないだろうか‬