もう一つの近代

荻生徂徠『弁名』は人類を見渡す社会哲学である。そういう哲学は徂徠によってはじめて書かれた。問題は、この『弁名』は江戸幕府によって生かされたか?ということである。<もう一つの近代>を考える上でこれは一考の価値があるかもしれない。『弁名』から、江戸幕府は自ら構成した絶対王権を以て連続性を以て近代化を担えた可能性があった。しかしそれは現実化しなかった。徂徠ですら、政治について自由に言及することは危険であったという。そうして、19世紀において幕府の政治権力はそれほど理念に支えられた普遍性をもつことができなかった。その結果、明治維新エスタブリッシュメントになっていく尊王攘夷を唱える長州が京都から天皇を勝手に連れ出すことを許したかもしれない。では新しい時代に、普遍性はどこから来るのか?ここでは、普遍の不在と普遍の現前の関係を、構造主義的にとらえてみようというのである。相補的に、普遍性は、ヨーロッパ近代からくるのである。近世による西洋語の翻訳があったおかげで明治のヨーロッパ近代化はスムーズにいったが、ラディカルに近世の思想との連続性を断ち切っていくのである。ヨーロッパの近代化は拒む自由もないほど圧倒的だったという事情は同じだが、日本近代化は、過去の伝統を残していくイスラムのヨーロッパ近代化の場合と異なるのである。‬とりあえずの結論を言うと、荻生徂徠『弁名』は江戸幕府によって生かされたら、<もう一つの近代>が実現したかもしれない。今日安倍政権が出てくることはなかっただろう。だけれど近代は近代。いくら<もう一つの近代>が実現しても、それがイコール近代の解体ではあり得ない。脱近代の意味を明らかにするためには、このことをどうしても考えておく必要がある
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