詩人

昭和十年代はモノ考える人は「非国民」と指差されたら<最後>だったように、共謀罪の時代にはモノ言う人がその前に「一般人」という徴が彼/彼女/あなたにないと<始まり>がないかもしれません。ないとされてしまうというか。<最初>に来るべき詩人は、<終わり>からあらわれるのではないでしょうか。僅かでも、まだ希望が残っているとすれば、このあらわれる事件によって、<終わり>がかならずしも<最後>を意味することではなくなるものかもしれません。自身における思考の欠如を感じ言葉も足りませんが、なんとかここでは、反動に対する思想闘争のことを言っているだけではありません。ここでは、歴史修正主義者が企てている戦前との連続性の回復を絶つような<終わり>をわたしは考えようとしています。思考は、宣長アドルノが見出したような、蘇ることなく滅んでいく過程からはじめてあらわれ得る美それ自身のことと関係があるかもしれません