17世紀の原初的テクストの注釈をいかに読めるようにするかこの作業を四年間傍らでみてきた印象を書くと、ア
マチュアの立場だからみえることもある。注釈を読むこととは、「旅」というものを喚起する、起源からの「変容」かなと思うようになった。逆に、注釈が旅を発明したとかね (教典を読む巡礼の旅はどうなのよ?) それは、現代のために現代を読むだけの現代語「翻訳」とは違う。また滅んでしまったものだとしても声の力で蘇るよという
こちらをその気にさせる口語訳の本質にもあらず。寧ろそれは現代を空気を読むようには読まないし、滅んでしまったものも無理に読むことはないのである。