サルトル

‪ヨーロッパにおけるサルトルの復活がいわれていて、それはポストコロ二アリズムからの読み直しをいうのであろうが、そこで「他者」として指示されているのは、アフリカ・アジア・ラテンアメリカにおいて読み出される反近代のあり方である。わたしはそれに反対しない。だけれどわたしはその手前で、『存在と無』が「他者」にいかに接近していくのかを読んでみたいと思うのである。最後まで読み通すことができない。サルトルは「対自的」存在と「他者」との問題をいかに書くのか?「存在」は「本質」に先行している。この方法論は至るところに書いてある。サルトルは「存在」の問題から離れることなく、ここから「他者」の意味も考えなければならない。哲学においては、"これ"を否定するとか"あれ"を否定するとかよりも否定の力の普遍が要請されているように、存在を包摂するような関係の一般性よりも<この関係>という多様性が要請される。対他的にここからしか、他者と均くもつ自由の意味を考えることができないと言っているように読めるのである、全体性の真理に絡むとられることなく、というか。‪‪わたしの読み間違えをおそれずにいえば、知識人というものは「存在」について語ろうとすれば、「他者」の構造に連なる「対自的」「対他的」は切り離してはいけないのである。‬