‪ 劉暁波とはだれか?

劉暁波とはだれか?

「西欧ではバッハが教会で演奏してからカラヤンがベルリンのホールで演奏するまで三百年ぐらいかかっている。日本では西欧音楽が輸入されてからわずかな時間で現代まで来ちゃっている。」(武満徹)。音楽家ならば直に音に依って自由の意味について考えることができるのだろう。政治と思想が言葉をともなって接近していく果てに囚われて停滞する「境」なんかないのだろう。厄介なことに、言葉というやつは対象に近づいて見えない「境」を超えると転倒が起きるらしい。よく指摘される通り、西欧は自由を規定する方向に自由を読み取るのにルネッサンスから五百年かかった、アジアではそれを百年とか二十年とかで獲得しようとする。それほど時間の流れが圧縮したならば、西欧において長い時間を以て保たれていたような、基底的な方向と方向との関係が入れ替わるという「境」があるかのようだ。そしてこの「境」を超えると、自由を否定する方向に自由を読んでしまうとか、逆に、自由である方向に自由の否定を読んでしまうとかね。例えば、「文革」とその熱狂が前者の場合で、「天安門前広場事件」の歴史の抹殺・忘却と「08憲章」に対する非難が後者の場合。だから学ぶことによって、自由を規定する方向にその通りに自由を読み取るように正しく研究するしかないわけだし、このことの自覚から、アジアの民主主義への希望の名という風に報じられるようになった、劉暁波とはだれかという問いが立つ。(旅行中で列車で移動する暇な時間があるが、このクニの民主主義について考えるほど暇人じゃないが、いまこのときに何かを言うとすれば、) 劉暁波からする中国の新しい普遍主義なくして、日本の民主主義は大きな広い円のなかでものを考えること、そして大きな時間的な広がりのなかで考えることができないとおもう。もしできなければ?注意深く考えるべき構造の問題である。安倍政権に有利に「彼ら」と「我ら」との間の分割的線引きが為す底無しの意味にいつまでも絡みとられることだって。こうしたことは、フランス・ドイツ・イギリス (そして常に私はアイルランドを加えるのだけれど)の普遍主義の新しい再構成なくして、ヨーロッパ諸国の民主主義が十分に成り立っていかないことと同じであると考えられるかもしれない。一人ひとりが学ぶことから始まるのだとおもう。‬