近代における学校の問題

‪ヨーロッパというのは自己決定を尊重している高さをもっているとみえるというのに、中流女性の非ヨーロッパ人との国際結婚が非常に少ないのは一体どうしてなのだろうかと長年疑問におもってきた。自己決定の自然な結果なのか?そうは思えない。とくに言語学者の間で分析されているように、学校の影響があるのではないだろうか?ヨーロッパの学校の経験があるひとでないと、共通の価値を保てないからと感じられるのか?なにかこれはもしかしたら、日本の学校が平等という理想をもっているはずなのに、差別する中流を大量に生みだしている現実と同じところの問題を構成しているのではないだろうか。あらためて、「思想史家が読む『論語』」の序文を読むと、これについては考えるために、近代における学校そのもののあり方を問うている。またこれまできちんと読んだことがないのだが、シュタイナーは、国家が宗教団体から教育制度を取り上げ支配下に置いた後、学校が国家や経済界が求める既存秩序に適合した人材 (労働機械)の育成の場になっていることを指摘しているという。これには、「思想史家が読む『論語』」序文の意味を考えるうえで大変興味深い関連性があると気がつきはじめている。こうしたことはフーコが言っていたことである。