近世の注釈学

‪ ‪‪‪‪‪注釈学の近世は、遥か遠くへ出かけて行って深く探すことはしないのです。帝国の宇宙世界へ行かないし、そこで起源を探そうとはしません。近代の場合のようには逃げ場がなくなるほど隙間なく解釈し尽くす網目を作ることはおきません。寧ろ、人間世界のなかのその所に居るために広く近くに立つのです。( ここで「人間世界のなかのその所に居るため」というのはいわゆるヒューマニズムを意味するのではありません。そうしてしまうと、それはオリエンタリズムにおいて為される真理との同一化を措定することになります。そういう同一化は遠く深くなのです。) 注釈学の近世は、死に切った絶対の過去との間に非連続的連続を、学ぶ自己と共に再構成しようとするのは、卑近における同一性なき投射によるというのでしょうか...‬

‪ 近世の注釈学は、人間世界のなかのその所に居るために、あえて、死に切った絶対の過去に依拠して他者とかかわる。原初的テクストについて解釈できない部分は解釈しない。「古義堂」での講座も仁斎との一対一で行われていたという。(他は順番が来るまで控え室で待っていた。) それに対して、近代の解釈学は、人間の思考に、逃げ場がなくなるほど隙間なく解釈し尽くす「一国知」の網目を張り巡らす。ここで清沢満之の明治を考えているが、国家が宗教団体から教育制度を取り上げ支配下に置く結果、学校の国家や経済界に対する従属が起きるだけではないだろう。思考も、高慢な解釈に深く拘束されていくのである‬。