周辺から考える

周辺から考える

‪言語が世界を覆うとされると、世界の限界が言語の限界として現われるのであるが、外部との関係が観念されるその端に、偶然に、世界を映しだす大きな鏡が立つとき(キューブリック2001年宇宙の旅』の冒頭のように)、鏡に映るこの部屋は何を意味するのか(猿にとっても宇宙飛行士にとっても)。鏡の背後はそれを支える壁なのに、そこにあたかも窓の枠を意味づけると、何が起きるのか?(デユラス『インデイアンソング』で何がおきたか?) 。壁の貫通 breakthrough がなければ、獲得しなければいけない異なる外部(文化)に住むことが難しくなる。漢字の獲得は漢字受容から1000年間を要した。漢字仮名混交文という形で、ここから東アジア漢字文化圏の中心思想(朱子学)に対する思想闘争が可能となった。伊藤仁斎の『論語』注釈はその証言である (中心からの知的距離を書いた。『論語』は距離について思考する本となった)。アジアの「知識革命」を為した周辺から、世界の限界と言語の限界を乗り越えることが自覚されてくるこの時代の新しい経験。だけれど近代は「前近代」という名づけによって、近世が近代の知を突き崩す可能性をもつ外部と認識しないだろう。そして中心は近代に定位することになった。周辺も近代に定位する。問題は、いつ、中心が、近世にあった周辺の経験と思考を考えることがはじまるのかである。そのときは、中心は中心でなくなるし、周辺も周辺ではあり続けないだろう。だが要請される新しい普遍主義の思想が、グローバル帝国論の方向に非常に悪い形に、歪められてしまうかもしれない、劉暁波の死について伝えられるところにおいては、こういうこともかんがないわけにはいかない