リュミエール

『「光 (リュミエール)」という名前だった‬。彼らは瓜二つだったので、それ以来、映画を作るためには、いつもリールが二つあるのだ。一つは充たされ、一つは空になる。まるで偶然であるかのように、ヴィデオでは、左側のリールを奴隷、右側のリールを主人と呼ぶ。ああ、わがカール!ああ、わがローザ!‬ ‪』

ゴダールのナレーションは、二つの円の間の関係について語っていて、そこで、互いに等価である円同士なのに、一方が奴隷、他方が主人と呼ばれるのは何故かと問うている。ここで言われていることをそのまま読むしかないわけで、付け加えることもないのだけれど、これを読んだわたしの想像の中のことを言うと、比類なく単純な形式をもつ円と複雑な表象をもつ円とが互いに隣りあって並んでいる。両者は互いに必要としていて、どちらもどちらに依拠するが自立している。ところが前者が下、後者が上という配置をとると、それは近代である。複雑な表象をもつ円(現在)が、自己のために、単純な形式の円(過去)の意味を物語ってしまうのである。常に、現在は過去から単一的直線上に発展してきたというふうにである。過去から、現在をみてやろうということがゆるされなくなる。過去から、現在が失敗していると言うことが難しくなる。つまり現在の円の内部から現在とは別の過去の円を見るのが非常に難しいのだ。それが近代なのだ。‬