「シュレーバー回想記」

小池百合子の「ラジオ体操は日本人のDNAに刻まれた体操である!」宣言。元々ラジオ体操は『シュレーバー回想録』を書いた彼の父親が発明した体操という。ラジオ体操は音楽がかかるとどうしようもなく身体が動いてしまう、吉田松陰の心の中心から洗脳してくるように、身体を従順にしてくるテロリズム

シュレーバー回想記」に芸術の線と点が織りなすヴィジオンがある。吉本隆明の書評を読んだ後に、その最初の翻訳を読んだのを覚えている。フロイドは「シュレーバー回想記」を分析した。今日で言うテクストとしてそれを読んで分析の言葉を書いたのである。私の関心は、フロイドは彼の精神分析の枠組みを成り立たせなくなるような過剰を隠蔽しなかった理由である。それは、神話が支配者がその支配を正当化するには都合の悪い反逆の記述を残す場合と同じなのだろうか ?パラレルに、そう考えてよいのだろうか?