永遠性の意味を問う ー誰が永遠性を語るのか?

永遠性の意味を問うー誰が永遠性を語るのか?


ハンナ・アーレントは観念としての永遠性の起源についてこういう。「哲学者が永遠なるものを発見したのは、彼らが、ポリスはどの程度まで不死であるのか、それどころか、どの程度までつづくのかというもっともな疑念を抱いていたからである。そして、この発見の衝撃はあまりに大きかったので、不死への努力を全て見下さざるを得なかったのだろう。」(『人間の条件』3)。アーレントによれば、永遠性の観念はポリスの経験をもつヨーロッパにしかないということである。ところで、「人間への信仰は、人間の存在を可能ならしめる神性への信仰を前提としている 」(ヤスパース)。シュタイナーの話題が出たとき、「神性」とは、永遠性の観念のことではないかという話を子安氏から伺ったことがある。もしそうだとしたら、アジアにおいては「永遠性」の観念がないというのだから、日本人にとって人間への信仰が不可能となってしまうということなのかなどと現在考える。しかしそうではあるまい。アーレントと同様に、知識人として、ヤスパースは、ヨーロッパの特殊性について語っているのではないだろう。アジアでもヨーロッパと同様に、普遍としての、人間への信仰が成り立つはずである。この時代、人間への信仰は何と結びつくというのか?ヤスパースの研究者もおられるので何か恐縮であるが、拾い読みしたこの言葉をここに書いておこう。「我々は結局のところ、かつてないほど依存し合っている個人個人にすぎませんが、同時に根源としての我々自身に投げ戻されています。めいめいが自己に投げ戻されているのです。 肝心なのは自分だということをめいめいが知らなければなりません」。ここから、人間への信仰は、一応我々自身と同一化しているものと結びつくというふうに読み取れる(そういう読み方が可能だということ。)ただし、そうして我々自身は、国家との同一化に送り出されるという可能性もある。しかしヤスパースは、やはり普遍主義の要請から、愛国心の同一性を否定するか、容認しないのではあるまいか。(だからたとえば今日のナショナルなものとしての憲法という捉え方は知識人において不可能なものであるとおもう。) 8月15日がやってくるわけであるが、8月の最初の日に、東アジアにおけるグローバルデモクラシーの意味を考えてきたように、漢字文化圏におけるポリス的開かれた永遠性の意味を考えているのであった...