再び習俗儀礼について

再び習俗儀礼について。‪「政」とは法制禁令のこと。習俗儀礼は法制とは異なる。仁斎の『論語古義』の大意によると、「おもうに、政刑による治の効果は速やかに出るとはいえ、その民の治に及ぼす程度は浅い。徳礼による治の結果は緩やかではあるが、その民の治に及ぼすところは深く、大である。徳礼による治は永続する。」(左から3行目。「徳禮之効。似緩。而其化大也。」)
‪子安氏の講義レジュメの評釈によると、仁斎は一見朱子にしたがって解しているが、しかし内容的には、「彼は『徳』を孟子によって、村々で教えられる道徳と解したように、『礼』も各地で継承されてきた習俗儀礼の節度あるあり方と解していると思われる」という。共同体の自主的な儀礼の体系を社会の堤防としてとらえられていた点を子安氏は強調していた。この点については、祭司一致の禁止という共同体の自主的な儀礼が日本人が拠り所にするその防波堤かもしれない。最高裁の解している「習俗儀礼」は、政教分離を壊す、したがって社会の堤防を壊していく意味をもつ危険なものではないかとわたしは心配している。
‪最後に、習俗儀礼について古代ギリシャはどうみていたのだろうか。ここで習俗習慣を習慣と理解していいのかはっきりとわからないのであるが、仮にそう理解していいとしよう。習慣と性格の間にこういうことをみてとって誰にも理解できる言い方ではっきりと言ったのは、プラトン。最近フェイースブックでもお書きになっておられる Eiji Kunikataさんが訳されたプラトンの言葉を引くと、「人間の性格のすべてが習慣によって決定的に植えつけられるのはこの時期である。κυριώτατον γὰρ οὖν ἐμφύεται πᾶσι τότε τὸ πᾶν ἦθος διὰ ἔθος. 」(プラトン『法律』VII 792E)。これについてEiji Kunikataさんのコメントによると、「習慣(ethosエトス)が性格(ēthosエートス)をつくる。幼少期の教育ほど大切なものはないと、プラトンは言う。」‬アリストテレスプラトンとは別の見方で習慣を意味づけているとのこと。プラトン朱子と17世紀の仁斎を比較してみたいとおもうのである。