デリダ

文は私をとらえる。私を離さない。たとえば、ふとんのなかで、"ああ、これは書いておかなくちゃいけない"と毎晩おもうのである。これは、‪「私は債務者であるというだけでなく、すでに払いが遅れている」ということなのである。だけれどね、この過程を、恰も心の問題からアプローチする探偵がやるように<限界状況>ごときものとみなすという必要がある? (「正常ではないかもしれないが、だからこそ...」とワンパターンの前置きをして)<その心情>には狂気の代償としての<普遍的真理>があるとどうして深読みしていくの?一見文学的創造性のよき共犯者としての様相をとるけれど、所詮は、「正常か、正常でないか」の規範的秩序をより深く再語りしているだけである。‬それは、他者から他者を奪うことをやめない、うんざりとさせられる近代の尽きない監視的眼差しである。


(参考)‪「文はなにかよく分からないものを私に託したーそれはたぶん私じしん、あるいは私たちじしんだったのかもしれないが。文は、そのようにしていわば前貸しをしたのちに、私に身を託したのだ。文は私に前貸しをした。そうした前貸しという事実、それこそが文の実態なのであるー文がどのようなものであろうが、どこから来ようが、何を意味しようが関係なく。そして、前貸しされたという観点からするち、私は債務者であるというだけでなく、すでに払いが遅れている。つまり返済をつねに迫られる状態にあったのだ。」(デリダ、『留まれ、アテネ』より』)