ネオリベラリズムの思想 2

ネオリベラリズムは、レーガンサッチャーの時代には戦後社会民主主義の対抗言説としてあった。クリントンとブレアの時代になって、市場から社会民主主義が再構成されるようになる。その結果、社会民主主義の消滅の危機が始まった。グローバル資本主義の時代の今日、トランプは反フリーマーケットを訴えるが、実体は一国主義のものさしではかるネオリベラリズム以外のないものでもない。さて、「市場が大きくなり過ぎた」という批判は有効か?この言葉はただネオリベラリズムを有利にするだけのようにみえる。彼らはいう。「では、市場そのものを否定できますか?反近代的な全体主義の統制を望むなら別ですが、否定できないでしょう。われわれはあなたたちに、市場によることの正しさを教えることができるのです。あなたたちの不満は、市場が大きすぎるのではなく、まだ小さすぎるという主張によって訴えるべきなのです」と。このように語ってきた、ある種の高慢さは、近代の理性が自らを閉じこめようとするところの危険な偶像化をおもわせる。問題の所在は、実は、何でも彼でもを市場という名の理性に等価することにある。ネオリベラリズムの時代とは、市場を理性に等値する時代である。社会は市場と同一視できないし、価値はイコール価格ではありえない。市場のカオスにたいして、民主主義が市場へ介入を行う無秩序によって対抗することが起こってきた。何でも彼でもを理性に求めたごとく、言説としての市場の意味に求めるような体制をいつ終わらせることができるのだろうか?