民衆思想とはなにか



伊藤仁斎‪『論語古義』を読む前に、『歎異抄』『教行信書』を読んだ。『歎異抄』『教行信書』を読まなければ、『論語』を読みなおそうとしただろうか?それはわからない。数年後に、こうしたことのつながりがはっきりとみえてくるかもしれない。確かなことは、この五年間、民衆史と民衆思想の意味を批判的に問うてきたのである。さて民衆史と民衆思想は、望まれた近代の革命が国家の側に奪われていく歴史を指摘した上で、忘却された民衆を発見する知である。そうして、民衆の評価によって、親鸞が肯定されてくる。(子安氏の『歎異抄の近代』で分析されている。) 民衆を語る知は、近代の成立と共に成立した民衆の観念を近代以前に遡らせて、腹話術的に、自らが語らせている民衆の声をきくのだ。未来を思い出せ、民衆が存在したところから、と。そうだからこそ、民衆も親鸞も、それらは近代によって発明されたというべきではないか。民衆史と民衆思想は、想像されたもう一つの近代国家を作っているだけではないだろうか?‬(その証拠に、xxを取り返せ、といいつづける。) しかしそんなことは承知の上だというかもしれない。だけれど、敢えて、民衆史と民衆思想に問う。近代国家はどうやって近代国家をやっつけることができるのだろうか?‪万民の思想が要請されるこの時代に、民衆思想の限界について議論することは意味があるとおもう‬