デリダならば?

靖国問題に取り組んできた姿勢を評価しないわけではありません。勇気あることだとおもっています。問題は、靖国問題を語るとき、「祀って欲しいという遺族はいいのですが、宗教法人としては...」という言い方で先ず心の問題から入ることに対して、デリダならば言うかもしれません。君は心の中の奥深い声をきいたように喋るが、靖国の近代が依存しているのはまさにその種の内面化ではなかったか?‬デリダとかれの近代批判は研究の対象でしかないならば別ですが、靖国問題は最初から最後まで、制度の問題として議論すべきではないでしょうか。