文法性

‪主語が過程の内にあるという。なるほど、書かれた言葉の文法性が、世俗的日常言語の統一性に絡みとられぬ思考を規定しているという例かも。(規定というと大まかな表現だけど)。漢字についてはどうだろうか。わからないけれどね。ただ気になるのは、これは、文法と哲学だけの意味づけの話にとどまる話ではないだろう。問題は、中動態としての抵抗をどこで考えるかだよな。ロランバルトを読むと、「書く」(能動態)「書かれる」(受動態)ではなく、「書いている」というのがある。感化の大きな運動においてが、「書いている」と「描(か)いている」の差異がない。‪自己という偶像の再興に抵抗できるかどうかだけれど‬