書くこと - フーコ、ゴダール、ジョイス

フーコは比喩形象から考える。フーコは言語の端に留まる。外部の思考は書くー 絶対者が内在性に行くことを用心深く避けるように。あえて侍女たちと道化と画家は、京都市井の学者で身分なき町人が君主と士大夫が立つべき場所に立つように、王の場所に立つのである。何が起きるというのか?フーコと同様に、ゴダールにとっての問題は、書くことに存する。書くことは自立できるか?映像に関わることは、デリダにおいて問われるように声と関わる危うさと等価の危うさを常にもつ。文学者が撮影カメラの後ろに立った。ゴダールは初めて映画を文学にしたといわれる。ゴダールから、書くことと編集することの差異がなくなった。そしてジョイスはストーリー・テラーに成る。言語の端 ("自己で決めた亡命")に存在するために、貧しいアイルランド国内に仕事が全然なく大陸へ行って英語を教える日雇い労働者が亡命者が立つべき場所にあえて立つ。これは、サイードが指摘するように、前衛芸術家がパリに行って故郷喪失者となる場合と異なる。いったい何が起きるのだろうか?書くことを、リアリズム的偶像破壊と神話的偶像再興の間に置く‬のである。