MEMO

The practice of micro-politique, awaking the Kant's "the faculty of practical reason", is indispensable to the Deleuze's concept <body without organ>;Imagination without totalitarianism, faculty of Reason imitating one of Imagination , multitude without representation


「フィネガンズ・ウエイク」(FW) のジョイスは、意味体系における文字からその意味体系を漂白し、ただ表記記号化したことから生じる意味の空白を、表層的にただ指示していたーなにを? べケットは本は意味の空白を含むとした上で、その空白を反転させて自己を主張することはないーだれが? ジョン・ケージは本から計画性を取り除いて偶然性を指示するだろうーどこに?



 

Le seul « lieu » au le négatif soit vraiment, c’est le pli, l’application l’un à l’autre du dedans et du dehors, le point de retournement. D&G

否定的なものが存在する唯一の《場所》は、襞であり、内部と外部との一なるものから他なるものへ繋ぎ目であり、折り返しの点である— 



Is a demonstration purpoesless? No.It has definite purpose.It is the act to make a society with the demonstration.

(Kojin Karatani, critic)


「デモにどんな意味があるのかと懐疑的に問う人が多くある。しかし、デモには意味がある。それはデモのある社会をつくる行為だからである」

(9.11新宿デモ、柄谷行人の演説からの引用)


アルファベットの絶対的代理性とかれが呼ぶものを、貨幣と比べています。('恣意的記号の流通における分析的抽象化のこの運動は、まさに貨幣を構成する運動と並行的である'。Ce mouvement d'abstraction analytique dans la circulation des signes arbitraires est bien parallèle à celui dans lequel se constitue la monnaie.) たしかに、日本語の話し言葉に、例えば音素としてのDが直に現れることはありません。だからこそかえって、Dは他のアルファベットの配列と共に、話し言葉を代理(表現)できてしまうというわけです。(実は同じことが英語についてもいえます。) 同様に、貨幣が貨幣として成り立つのは、貨幣が商品(と呼ばれることになる諸対象)と無関係だからです。そうして「貨幣が同じ尺度で計れぬ諸対象に共通の尺度を与えてそれらを商品として成立させる」のです。デリダはこれを「定理と劇場」の前で論じていることに注意したいとおもいます。アルファベットのかわりに五十音でかんがえてもらっていいのですけれど、(舞台で想起されるような) 共同体の声の力と(ルソーの)人民意思、この両者は、文字の絶対的代理において互いに切り離せない関係にあることが語られていきます。映画の場合は演劇と差異化するために、アルファベットを介入させていきます。ゴダールが常に文字を書いたサイレント映画を喚起しているのはこういう理由からです。


‪I am not enough wise to give you full explanation on his thought but I may show you how Jinsai Ito deconstructs the Zhu Xi school of Neo-Confucianism , taking one passage from "Analects". ‬

‪ ‬

‪The Master said, Shen ( Master Zeng ), my Way has one theme running throughout ! ‬

‪Master Zeng said, Yes.‬

‪After the Master left, the disciples asked, What did he mean?‬

‪Master Zeng said, The master's Way consists of loyalty and reciprocity alone. ‬


‪According to Zhu Xi 's Interpretation,‬

‪it emphasizes on the value of " one theme". 


Jinsai Ito reads it differently. 

To him, "loyalty (to the other) and reciprocity alone" is more important. 

This passage only refers to "fellow feeling among ordinary people, doing to others as you would have them do to you". 

(It should be so although reality is different. ‬)


‪Zhu Xi , as big Other, universally represents imperial monism. 


Rather Jinsai Ito takes pluralism ( "multiplicities"; Gilles Deluze's coined word)‬

‪With altruism in thought, pluralism in politics goes hand in hand. ‬


‪寸劇 不正招致‬

森大会組織委員長「東京五輪の不正招致、証拠も結論も出た。知らーんぷりかい?五輪は呪われている」

‪ガス官房長官「あなたが言うな!閣議決定で不正招致は無かったことにしますが、一応フランス検察には、お見事、と打電しておきますか」‬

安倍総裁「きみはバカかね?」‬



‪But the abandonment of Aristotelian science did not bring in its train the wholesale abandonment of Aristotelian metaphysics, even though the concept of substance was to suffer some fragmentation at the hand of seventeen-century philosophers. Different philosophers placed emphasis on different strands in the Aristotelian doctrine of substance: Leibniz, for instance, emphasising ( in his theory of monads) the theme of the unity of an individual substance: Spinoza emphasising the theme of the ontological independence of substance: and Locke emphasising the role of substance in its relation to qualities. ( E.J.Lowe)‬



両班と呼ばれる、儒教の影響が大きい、官僚たちが推進していった近代化の問題ですよね。近代化については議論がある所ですが、必ずしもそれほどスムーズにいったようにはみえません。では下級武士が推進した近代化はスムーズいったかといえば、比べると、見た目にはそういえるかもしれませんが、問題がたくさんありますね。スムーズに行ったのは、江戸時代における高い教育と博学的知と朱子学を利用した知的翻訳に負うのですが、明治からはそういう過去を棄ててしまうのですね。京都から東京に天皇を連れてきてしまったことをはじめとして。儒教」という言葉を使ったらもう話をきいてくれないので、「儒教」の語をつかわずに他の言葉で誤魔化さなければならないという話を聞いたことがあります。「中華思想」とか?中世思想として成り立った朱子学は、人も動植物も非有機物も平等ととらえる神秘的な宇宙論的思弁をもっていて、現在からみるとある意味で社会主義的な同一性原理に貫かれています。ですが、皇帝の下では臣民は平等だみたいな感じの話はいかにも時代遅れでしょうね(教育勅語的世界の起源を考えさせられますが)。現在の話ですが、論じるべきは、朱子学の近代の問題。朱子学の考えは普遍主義。ここからは、徳川日本で発展していった儒学思想の意義をみとめようとはしないこと、偽物とか間違いとしてしかみないのですね。これは、ヨーロッパの近代が、普遍主義の立場から、アジアで発展していく民主主義の思想を偽物とか間違いとして論じる価値がないとする態度と同じです。アジアのヨーロッパ・デモクラシー思想として立てなければならない問題を、本物に至らないインチキ思想の遅れの問題としてしかとらえようとしないのですね。何にしても、中国の普遍主義とヨーロッパの普遍主義の間に囚われ続けているのがこの国の宿命というか。だけれどそれを活かすこともできるかもしれません。夏目漱石とか竹内好とか、アジアへの共感から、そういう話を若い人たちにする知識人がいなくなりました。漢字という他者から考えることの大切さでしょうかね。と、ああ、だれもそうだとは思わないのですが、意外に、わたしは儒者ですから、やはり、必然として堅苦しい話になりました (ほんとうはエピキュリアン、いや、現在はすっかり、駅ビルアン)


‪「桓武天皇の生母が百済武寧王の子孫であると続日本紀に記されていることに韓国とのゆかりを感じています」(平成天皇 明仁、2001年、68歳の誕生日記者会見で)‬ 桓武天皇の母親である高野新笠(たかの の にいがさ)は、百済(くだら・朝鮮半島)の帰化



「しかしこの世界において行為する理性的存在者は、なんとしても同時に世界および自然そのもの原因ではない。それだから道徳的法則のうちには、道徳性と幸福のあいだに、ー換言すれば、この世界の一部分として属し、したがってまたこの世界に依存しているような理性的存在者に彼の道徳性に比例して与えられるほどの幸福とのあいだに、必然的連関を成立せしめる根拠はまったく含まれていないのである。(・・・)そこでまたこの連関の根拠、すなわち幸福と道徳性とを厳密に一致せしめる根拠を含むような原因ー換言すれば、全自然の原因であってしかも自然とは異なるような原因(神)の現実的存在が要請されるのである。」ー波多野精一共訳、カント「実践理性批判」第一部五より


...das handelnd vernünftige Wesen in der Welt aber ist doch nicht zugleich Ursache der Welt und der Natur selbst.

 Also ist in dem moralischen Gesetze nicht der mindeste Grund zu einem notwendigen Zusammenhang zwischen Sittlichkeit und der ihr proportionierten Glückseligkeit eines zur Welt als Teil gehörerigen, und daher von ihr abhängigen, Wesens, welches eben darum durch seinen Willen nicht Ursache dieser Natur sein, ...Also wird zuch des Dasein einer von der Nature unterschiedenen Ursache der gesamten Natur, welche den Grund dieses Zusammenhanges, nämilich der genauen Übereinstimmung der Glückseligkeit mit der Sittlichkeit, enthalte, postuliert.

 - Immanuel Kant , Kritik der praktischen Vernunft


九十年代以降、大事な古典的な映画作品は無視され忘却の対象となっています。これと並行して、デカルトの名が哲学をあらわす固有名詞となっているような意味で、現在、ゴダールの名が映画そのものをあらわすようになりました。五十年間のあいだ、百本を越える作品を制作しました。


『われらの音楽Notre Musique』(2004)は、これを観た若い人達(ゴダールを知らない人達)に、インパクトがあったようです。意外かもしれませんが、実は、ゴダールは、この作品によって、はじめて、ヨーロッパの外で、映画制作を実現したのです。  


インタビューの中でsuicidial bomberのことを語っています。suicidial bomberという語を、「自爆するテロリスト」と訳していましたが、BBCは、(アメリカとそのメディアにとって都合がいいように)「テロ」という言葉を使わないと発表した理由を、日本人は知って下さい


大江健三郎も、例えば、在日アメリカ軍基地に対する抗議の意思表示として、suicidial bomberの可能性に対して、その意義を根本から考えるべきだと、すくなくとも、そういう小説が一本でも書かれるべきだと語っていたと記憶しています。小説「サルトルを書くこと」を書いた動機でした


アルトーは、監禁された自身の「身体」を、アメリカの狂気が展開する冷戦の場所として表象しました。「器官なき身体」は炸裂・爆発します。ドゥルーズアルトーに負っています。エピキュリアンとして自殺を肯定的に捉えたはずです。生きていたらゴダール映画にどんな評価を与えたでしょうか?

「われらの音楽Notre Musique 」 のオルガは、自信が無く声がか細くどもりがちな私達の分身。「"もう何も失うものがないからこそ、何かを獲得することができる"と彼らは思っている。そこがオルガ、つまり私との違いです。もう何も獲得できないときにも、なにかを失うことはできる、というのが私の考え方です」(ゴダールより)

オルガは、suicidial bomberとして、、イスラエルの警備兵達によって射殺されてしまう。実際は、彼女の鞄の中には、本しか入っていなかった。天国の描写が好きだ。まず、オリーヴェイラー的主題たる白い旅客船があわられる。裸体の男女達がボール遊びしている。貰った果物をかじる


エリオット、パウンド、ジョイスの前衛の伝説ー時空を旅する故郷喪失者達。実際は、原子炉の様なエリートの砦に隠遁していた。ゴダールは亡命者の如く、六十年代と七十年代に、北から南、西から東へと移動した。ヨーロッパという砦の外で映画をつくるのは、今世紀初頭の「われらの音楽」によってである


'パレスチナのインディアン'とドゥルーズ&ガタリが呼ぶ土地なき人々の研究。古代社会は無国家だけでなく、社会の「戦争機械」を使う戦争で国家に背いた。世界史は互酬制のカオスから国家のノモスへの構造的移行を記す一方、「戦争機械」の戦争ー今日ならば市民的抵抗ーが偏在した記憶を消去してきた。

たとえば、現在柄谷行人が行なっていることは、グローバル資本主義から起因する動乱を民族問題として整理し「帝国」の中心的役割をいう言説を蘇生させることだ。彼が市民的抵抗を見ない態度は、世界史が「戦争機械」の戦争の多孔性を消去してきたことに対応するといえよう。そうしてこれらの言説では、「戦争機械」の戦争も市民的抵抗も、国家の内部の暴力としてあらわれるノイズでしかないだろう。ここで、あらたに、ドゥルーズ&ガタリが強調していたことが喚起される。戦争は「戦争機械」の条件でも目標でもないという点である (ただ戦争は戦争機械の「代補」としてある)。そして彼らは「戦争機械」を徹底的に観念化していき、四つの本質的要素を導き出した。すなわち、<流れ>、<開かれた空間での混合>、<ハイブリッド>、<問題提起>である。