白紙の本

ジョイスを読むためには沢山の知識が要求される。ベケットは知識が問題とならない。この違いを以て、ジョイスがヒエラルキー的、ベケットがその反対だと言う人がいる。そうだろうか?しれにしても、ジョイスの一日を書いた本は疲労困憊、なぜあのように隙間なく文字が配されているのか?オスカー・ワイルドの構想ーアイルランド人が植民地主義者が管理し尽くす一日から脱するためにそれから自立した生き方を芸術が呈示するしかないーを現実化したといわれる。ジョイスのあらゆる知識(言説)を羅列した本は『イタケ』挿話のラストで、マラルメの本のように、白紙の本に変容してしまう。ベケットの本はジョイスの終わりからはじめる。最初から最後まで白紙の本を書く(読みとおすのは拷問?)。ワイルドが言うように(そう言ったかな?)、作家は想像力にしか頼れない。その過剰としての空白( indiscernibility:Badiou)は、リアリズムによっては包摂されないし、ロマン主義の純粋な外部的独立から得ることもないということかなとかんがえているのだけれど...