暴力とはなにか?

‪暴力とはなにか?


処刑でしかないほどの暴力にたいしては、暴力を否定しているが、暴力を容認する根拠のない色々な考え方にも共感している人たちは、どっちなのだろうかと疑問におもうことが時々起きてきます。こういう場合が、結局暴力を肯定しているんだろうというふうにおもっていますけれど。私自身についていえば、言説の中でも、ある物の見方が言語によっては覆すことが不可能なほどの絶対的な権威となったとき、この言説に対しては抗議という形での暴力が正当化されるのではないだろうかということはかんがえます。自分に対する暴力、自分に対する抗議という意味もあります。問題となるのは、別の見方をしている自己が何によるのかということですね。それは、言葉にとどまるだけではすまない、行為にかかわる倫理的な問題です。他者の問題を考えないわけにはいかないです。

これについてかんがえますと、それならばヒトラーとかスターリンがそういう他者かもしれないと考えてみることもできるかもしれませんが、ナチズムとスターリズム、そして戦前の天皇ファッシズムの問題とは、他者を肯定する他者も存在しないし、他者を否定する他者も存在しないという原理主義にあるといえるでしょうか。


私は子供のとき四年間、まだ日本人が500人ぐらいしかすんでいなかった時代のオーストラリアのパブリックスクールにいたのですが、当時はベトナム戦争に積極的に参戦しなければいけないのではないかという世論が起きていました。白豪主義をやめなければならなかったときに、再び自ずとアジア人に対する猜疑心というか反発がたかまってきたときですね、子供でも、かえって子供だから、空気の変化を敏感に感じるのです。学校のトイレでの出血するほど蹴飛ばされたことがありました。このときはその父親と学校から謝罪を受けました。だけれど、「なぜこういうことが起きたのか」と聞いても、私の両親をはじめだれも説明してくれないのですね。謝罪の意味について説かれるばかりです。このとき、例外的に、いつも家に呼んでくれて私を可愛がっていた、大家さんのユダヤ系の女性が、今思えば義憤というかそういう世の中にたいする怒りを示しました。記憶も消えてきた、この事件についてなにか整理しておかないといけないのでしょうが、どうしても現在の日本から解釈することになるでしょう。そのことを自覚した上で、戦争というのはどこにもあるんだ、学校のなかにすらあったんだというようなことを考えています。イラク戦争のときから、「日本も血を流さなくていいのか」ということがいわれるようになったことに非常に警戒しています。どうも、この「日本も血を流さなくていいのか」は、暴力といじめと戦争を肯定しないが反対もせずに結局容認していくような、考え方を規定していく考え方のようなものなのだろうとだんだんと気がついてきました。最初にのべた、言説といわれるものですね。やはりというかあまり整理がないままですけれどね