土葬、火葬、そして水葬

‪思いかえすと、土葬の墓場がダブリンのバス停に隣接していた。ロンドン時代は火葬場を通って買い物したり駅に行った。土葬と火葬の差異について考えてみる。消えゆくものをいかに意味づけるか?土葬と火葬については、デリダ脱構築的に語るように分析する力をもっていないけれど、両者の差異は生きている人間の記憶のあり方を規定してくる違いなのだろう。記憶という点から比較すると、火葬というのは、土葬の居住的な記念碑的本質とは異なり、骨壷によって、何処の部分にもならずどこにも属すというギリギリ匿名と化す脱記憶化となるのかもしれない。土葬と火葬のほかに、三番めのものを考えなくてはいけなくなった。ロッセリーニの映画はいかにナチスパルチザンをを殺害したかを描いた。単純に一人づつ夜の海に放り投げるのだ。そして21世紀の水葬である。アジアのスターリニズムの水葬は、墓碑のない墳墓、記憶の人間的意味そのものを無にしてしまおうとするも企てである‬