映画エミリーデキンソン

‪映画エミリーデキンソン


エミリーデキンソンの映画をみて、南北戦争の時代に生きた詩人を、イラク戦争の時代の詩人のあり方をかんがえないわけにはいかない。詩人はどこにいたのか?映画は指示する。奴隷制に反対するが、女性の自立を公の恥としかかんがえることができない言説を父が体現している。国家と宗教の領域と父の領域とは互いに重なりあうが、両者はいつも必ずしも一致しているわけではなかったようだ。父は国家よりも家族を大切にしていた。宗教の要求する服従に屈辱を感じないわけではなかった。映画のエミリーデキンソンはその父の領域の外に出ようとはしなかった。だけれど父と弟は、彼女が女性を奴隷とかんがえる意味が理解できないだろう。問題はもっと深刻かもしれない。いくら奴隷と女性を同一視する抗議も、リアルでなくなる。奴隷が解放されたとき、それでは女性は解放されたのだろうか?女性にとっては、男性が酔いしれる勝利も敗北も取るに足りない安易なものだ。それに対して、女性というのは、だれにもみられることがない、心のなかのたたかいをたたかうのである。女性たちは国家が戦死者たちのために打ち立てる祭祀的本質をもつことがない。そしてだれにもみられない心のなかの死は、ほかならない、だれにもみられない墓のことである。詩人の純粋さーは、この死の経験にもっとも近く、そしてつねにもっとも遠い境界にいつもあるような起源の純粋さである。無神論者と非難された青春時代から、詩人は神の立ち去った痕跡を追ってきた。親友から、あなたほど神に近い人はいないのよといわれる。だからこそ神を感じることができないほどの、死に切った絶対の過去に向き合うことになった。詩人は言う。束の間の瞬間だけが豊穣な絶対の過去をもつことができるのであると。‪

The most ephemeral moments possesses a distuinguished past.‬  Emily Dickinson ‬