ブレッソンとゴダール

ブレッソンの言葉「なにも変えるな、全て異なったものとなるために」を、「映画史」冒頭でゴダールはなにも変えずにその通りに語るのは、どこか、やはりブレッソンに同じものになるという欲望があるとおもいます。ゴダールはその欲望を禁じているので、自分に向けて、「なにも変えるな、全て異なったものとなるために」と言っているのかもしれません。たしかに、何もかもアイロニーとなるのですね。ところで、映画というのは、他のものよりも大きくなる、何かへの投射として成り立っています。だから、スクリーンとかレンズ、フィルムがなくても、思考の形において投射できるように、「何も変えてはならない、全てが同じままであるために」ということが言われているとおもいます。ハーレントが言うように、思考に一番近いのは詩です。その通りでしょう。その意味で、(消滅の危機にある)映画は思考の形式として詩に定位していくことができるのかもしれません。だけれど、死に切った絶対の過去(他者)の問題があります。絶対の過去というのは、比較をゆるさないほど絶対に大きいのです。ここにおいて、他よりも大きくなる、投射というものが成り立たなくなるのです。絶対の過去は、「何も変えてはならない、全てが同じままであるために」。だけれど神話的な外部的独立にとどまるのはやっていけなくなるというか。これと同時に、「なにも変えるな、全て異なったものとなるために」。だがリアリズムの包摂もやっていけなくなるかもしれまでん。こうして、思想性(否定性)から、媒介なく、向こう側がみえてくるのだろうかとあれこれ思索しております。