近代

偶像破壊的に、‪「なにも変えるな、全て異なったものとなるために」とするリアリズムの包摂のもとではもうやっていけなくなるに違いない。対抗的に、偶像の再興として、「何も変えてはならない、全てが同じままであるために」という神話的な外部的独立にとどまるのも無理かもしれない。‬そうして、思想性(否定性)から、白紙の本から、絶対の過去(三木清)という向こう側がみえるのかもしれないのである。だがこれと同時に、われわれのうちに半ば生き半ば死んだ過去に依存する政治の矮小化が起きてくる‪反動は、あまり鈍く無感覚に、近代の成立から繰り返されてきたのではあるまいか‬