溝口「雨月物語」を読む

溝口「雨月物語」を読む

映像の美をたたえるしかないのか?否、教訓がある。溝口「雨月物語」のなかで描かれている教訓は、職人がただ身に帯びた武具だけで己が武士であると証明しようとしたら、それはもう世を知らないというものである。これはいかにも当たり前の教訓である。しかし教訓というのは、オスカーワイルドが好んだように、教訓を幻滅させるためにある。1950年代の映画が与えている溝口の思想について注意深くかんがえる必要があるかもしれない。戦国時代の遺物である武士はもともと盗賊なのだから、亡霊が盗賊に道と品格をおしえてもムダなのである。‬ここから何が言えるだろうか。津田左右吉の言葉をひく。人の力を自由にまた正当な方向に伸ばし得る機会をあたえ、社会を民衆的に組織し、人びとの生活が公共的であることを実生活の上から切実に覚悟させるしかないが、そのためには、封建制と武士への幻想を破壊しなければ無理というものだ。‪失敗に終わった享保の改革の時代を批判したこの話は、現在を批判した話として参照してみることは一考の価値がある。それだけではない。昨日話に出たが、講座派的見方を否定していく80年代を経て、この影響のもとで?映画「雨月物語」を観る現在の見方を問う、また今日わたしのようにその見方とは別の見方をしはじめた、思想史としての映画史を構成していく手がかりのひとつとなるかもしれない‬などとおもうのである