反時代的に言ってそもそも希望に違和感をもちますが、同じく反復されるだけならばその希望にすら希望ももてません

‪漢字をとおして、どの時代が<前>で、どの時代が<後>なのかを考えることって大切だなと気がつきはじめました。「希望」は、明治以降に英語(hope)を翻訳して作った和製漢語だそうです。最初にそれを使った人を特定できるはずですね。この頃少しは明治の<前>の近世の漢字を読むようになったおかで、「希望」は気持悪いです。そもそも和製漢語の近代はいかに'思考停止'をもたらすものなのか?「希望」を使って何かを訴えている新しい政党にそれほど希望をもてなくなった理由です。明治の西洋化・近代化は和製漢語の増産によるのですけれど、これは、<前>‬の時代の翻訳作業がなければスムーズにいかなかったはずなのです。だけれど、もしかしたら大量デビューしたこ和製漢語のせいで、その<後>に生きる現在のわれわれは、現在というのは、<前>の時代からの沈黙の批判に常にさらされているという点を意識できなくなったのかもしれません。保守主義は日本語を大切にしようという一見もっともな話を伝えてくるのですが、よく話を聞いていると、どうも明治時代の日本語しか考えていないようなのですね。同じように、伝統と過去を大切しようと主張しても、それは、明治からはじまる伝統と過去の範囲しか意味しませんね。過去は明治が自らの写し姿というんですか、明治でしかない捏造した大和王国。江戸時代から批判的にみるとか、最近再び注目されている応仁の乱からみるでもいいのですが、とにかく明治の<前>の時代をもっていないと、現在に繋がっている明治を批判する視点をもつことが難しいでしょう。<前>に時代をもてない原因のひとつに、和製漢語の近代を当たり前に成り立ったとおもっているからかもしれませんね。話をまとめますと、近代化とは、西洋化を意味するわけですが、ヨーロッパのその圧倒的な影響に対して、イスラムと比較するとわかりますが、日本のような伝統を切り捨てた近代化って他の地域で起きていないのですね。自民党しかない近代とは何でしょうかね。たしかに、異議申し立てする少数党もでてくることはあるが自民党のせいで生き残れないという、どうも日本の近代化は失敗だったという危機感から、「希望の党」と名乗る異議申し立てが出てくる所以かもしれませんが、やはり明治に帰れみたいな感じなんですね。反時代的に言ってそもそも希望に違和感をもちますが、同じく反復されるだけならばその希望にすら希望ももてません。‬