「思想史家が読む論語」(子安宣邦著、岩波書店 2010年)

‪「思想史家が読む論語」(子安宣邦著、岩波書店 2010年)の副題は、「学びの復権」である。読むことができないことを知ることも学びだとわかる。そして学びが学びとして成り立つためには、行いを介して、信の構造と学びとが相補的に成り立つことがいわれる。現在この中国訳がうけているという。学びの自立性をいう本書が、上から下まで教えてくる体制に「Basta!」と思う隠者の知識人に歓迎されているだろうのだろうか?もしそうならば、この本の意味は、天安門前広場事件の劉暁波の「08憲章」からとらえることが可能であろう。文化大革命(権威主義の反近代)の後の最初の「学びの復権」を為すのかもしれない。本書の第4部の「弟子たちの『論語』」をよむと、弟子たちがいかに読めないテクストと関わっていったのかがわかる。継承者とかんがえていた顔淵を失った孔子。彼は依拠しようとした天からみすてられたと絶望するとき、未来を思い出していたかもしれない。これは実存的孔子像である。弟子たちは孔子が生きていたときは「道」の意味はわかっていたが、いかにそれを実現するかわからなかった。孔子の死後、「道」の意味も分からなくなっていく。わからないままに、抽象的規範性が思弁されてくる。おそらく17世紀のアジアは喩えると末法の時代のごとき空白で、実際に上が学ばなくなったのである。下が寺社・貴族が独占していた学問を学びはじめたのである。17世紀のアジアの啓蒙主義は、朱子学存在論を解体することによって、原初テクスト『論語』の普遍主義の読みを発見あるいは再発見していく。「思想史家が読む論語」を読めば、京都市井の人、学問好きの儒者(仁斎)がいかに、『論語』を読む18世紀と19世紀の知識人(徂徠、渋沢)と成っていくかを概観できよう。21世紀が要求するのは、ワイワイガヤガヤ、ウロウロウヨウヨと、「仁斎論語」を読む市民たちである