MEMO

自民党的なものの内部で、ファシズム美しい国」と右翼極右翼「希望」との間でいかに票を分け合うかというだけの話でどうか終わらないようにと空しく願うだけですね。事実上社会民主主義の政党を潰してしまった対価をはらわなくてはいけないとはこういうことではないですか


‪ブレア時代は、労働党はブレア派と反ブレア派の二つに分かれていた。彼は米国主導イラク戦争の参戦を決めるときも保守党の助けを必要とした。事実上保守党はブレア補完勢力だったのである。「希望の党」も、もしこんな感じで、(自民党補完勢力でなく)安倍補完勢力になるとしたら、自民党の安倍派と反安倍派の間の分断が顕在化するのだろうか?‬


これほど死票が多くて本当に民意が正しく反映されるのかと疑問に思っているところを、いきなりやってきたのは、こんなに選択できる範囲がせまくなってしまっては投票できなくなったという排除された感である‬


‪スペインの民をみると、デモクラシーが愛するのはまさにこれなんだと心が震える。決めつけてはいけないし何が起きるかわからないけれど、野党が亡くなるこの国をみると、デモクラシーから愛されない民が存在するという考えに囚われてしまう。だがこのことは原因があるはずなのだ


‪「3極の構図」(朝日新聞)という見方は、リアルに感じられない。自+公+希+維による「1 極集中」にたいして、共社立が対抗「1 極集中」としてかろうじてある‬


「弁名」の荻生徂徠が言っていることを解説とともに読んでいるうちに、昔読もうとしてあきらめてしまった「全体と無限」のレヴィナスの共同体について言っていることが切実な問題としてわかってきたような...


‪「點、爾は如何。瑟(しつ)を鼓すること希なり。鏗爾(こうじ)として瑟を舎(お)きて作(た)つ。対えて曰く、三子者の撰に異なり。子曰く、何ぞ傷(いた)まん、また各々その志を言うなり。曰く、暮春には春服既に成る。冠者五六人、童子六七人、沂(き)に浴し、舞雩(ぶう)に風して、詠じて帰らんと。夫子、喟然として嘆じて曰く、吾は點に与(くみ)せん。」(先進第二十六小)‬

‪「按じるに曾點浴沂の答えは微言なり。後世詩学明らかならず、ゆえに儒者は微言を知らず。その解を得るもの尠なし。按じるに曾點を礼楽の治に志あること、『家語』に見ゆ。これ必ず伝授する所あり。孟子に點を狂者と称す。その言に曰く、「古えの人、古えの人」と。その志極めて大にして、礼楽を制作し、天下を陶治するに志あり。...  然れども礼楽を制作するとは、天子の事、革命の時なり。ゆえに君子はこれを言ういむ。...即ち礼楽を言う容からず。かつその意、三子が諸侯の治を志すを小とするなり。そしてこれを言うを憚る。ゆえに志を言わずして、己今(いこん)の時を言うなり。これを微言なるのみ。夫子その意の在る所を識る。ゆえに深くこれを嘆ずるなり」(徂徠徴)‬


‪Zilu, Zeng Dian, Ran Qiu et Gongxi Chi étaient assis autour de Confucius. Le Maître dit; < Oublier un instant que je suis votre aîné. Vous avez souvent le sentiment que le monde ne reconnaît pas vos mérites, mais si vous aviez l'occasion de déployer vos talents, que souhaiteriez-vous faire?>‬

‪Zilu répondit d'un élan. ; < Donnez-moi un État pas trop petit, mais coincé entre des voisins puissants, envahi par des armées ennemies et ravagé par famine; je prendrais le pouvoir, et en trois ans, je ranimerais le moral de la population et je remettrais le pays sur ses pieds!>‬


‪Le Maître sourit.<Et toi, Ran Qiu?>‬

‪L'autre répondit ; < Donnez-moi un domaine de soixante ou soixante-dix lieues, ou disons plutôt, cinquante ou soixante lieues. Je prendrais les choses en main, et en trois ans j'assurerai la prospérité des habitants. Mais pour ce qui est de leur développement spirituel, lá bien sûr il faudrait attendre l'intervention d'un vrais sage. ‬


‪ー < Gongxi Chi, et toi? >‬

‪L'autre répondit : < Je ne dis pas que j'en serais capable, mais je souhaiterais essayer ceci; dans les cérémonies du temple ancestral, à l'occasion d'une rencontre diplomatique par example, portant chasuble et barrette, j'aimerais pouvoir jouer le rôle d'un modeste acolyte.  ‬


‪ー <Et toi, Dian ?>‬

‪Zeng Dian, qui avait continué tout ce temps-là à jouer de la cithare en sourdine, pinça une dernière note, et déposa son instrument. Il se redressa et dit: < Après ces beaux discours, je crains que mon choix ne paraisse incongru.> Le Maître dit: < Qu'à cela ne tienne ! Il s'agit simplement pour chacun de confier les souhaits de son cœur.> L'autre reprit: < Vers la fin du printemps, en tunique légère, j'aimerais aller me baigner dans la rivière Yi avec cinq ou six compagnons et six ou sept jeunes garçons; ensuite on irait humer la brise sur la terrasse des Danses de la Pluie, puis on rentrerait tous ensemble en chantant.>‬

‪( Confucius, Les Entretiens )‬


ヨーロッパ語といえば、have動詞とbe動詞。全然勉強しなかったのだけれど、アイルランド語の特徴として、have動詞とbe動詞とが一緒に機能する動詞があるといわれる。正確には覚えていないが、とにかくヨーロッパにおいてhave動詞的見方とbe動詞的見方とに分かれるまえに、この両方のが渾然一体となっていた見方をしていた時代があったかもしれないという尤もらしい説明を読んだことがある。ただし哲学的には考えてみるのは面白いよなあ


Tá … agam. ター…アガム「私は~を持っています。(直訳:~は私にある)」 …の部分に名詞をそのまま入れればOK。例)Tá leabhar agam.  「私は本を持っています。」

(アイルランド語bot より)


詩人の「離れ技 tour de force」は、意味を不在にすることである。le « tour de force » du poète est « de faire qu’un sens soit absent »(ミレール、2007ーーInterprétation, semblant et sinthome por ANNE LYSY-STEVENS)


《意味の効果でありながら、穴の効果でもある詩 c’est une poésie « qui est effet de sens, mais aussi bien effet de trou »》とあった。


ミレールによる穴の定義は次の通り。

Ⱥの最も重要な価値は、ここで(以前のラカンと異なって)、大他者のなかの欠如を意味しない。そうではなく、むしろ大他者の場における穴、組み合わせ規則の消滅である。 (ジャック=アラン・ミレール,Lacan's Later Teaching、2002、私訳)
欠如とは空間的で、空間内部の空虚 void を示す。他方、穴はもっと根源的で、空間の秩序自体が崩壊する点(物理学の「ブラックホール」のように)を示す。(ミレール、2006,Jacques‐Alain Miller, “Le nom‐du‐père, s'en passer, s'en servir,”ーー偶然/遇発性(Chance/Contingency)

ミレール派の Pierre-Gilles Guéguen は次のように記している。

主体は、存在欠如である être manque à être 以前に、身体を持っている。そして、ララングによって刻印されたこの身体を通してのみ、主体は欠如を持つ。分析は、この穴・この欠如に回帰するために、ファルス的意味を純化することにおいて構成される。これは、存在欠如ではない。そうではなくサントームである。(Guéguen、LE CORPS PARLANT ET SES PULSIONS AU 21E SIÈCLE 」、2016,PDF