「物で書かれたもの」L'écriture des choses とは何か

‪「物で書かれたもの」L'écriture des choses とは何だろうか。フーコ「言葉と物」を最初に読んだときから、この問いをもちつづけている。‪「物で書かれたもの」は世界の散文を構成しているといわれる。‪「物で書かれたもの」は、<物>であるかぎり、死後の天へ行く魂(気)と同様、消滅してしまうことになる。だがそれでは世界の散文が消滅してしまう切実な問題が起きる。われわれの過去を記憶している物を失うことになるし、現在記録している作業も意味がないだろう。ただこの考え方は、‪「物で書かれたもの」が消滅しきったときにこそ再び新しく原初的にはじまるという詩的インスピレーションをわたしの中で喚起するのだけれど。これにたいして、「物で書かれたもの」は、もし理ならば、<もの>として永遠に存続できるはずである。このことは、死後の天へ行く魂も理ならば消滅することが起きないので現在の祭祀が意味があるのとパラレルに同じである。

「物で書かれたもの」は、<物>なのか<もの>なのか、消滅してしまうのか永遠なものなのか、どっちなのか?( 「物で書かれたもの」は、<物>でも<もの>でもないとすれば、"物資的な、しかも漠然とした、つまり流動的で、非正確だが厳密な本質の領域" une région d'essences matérielles et vagues.,c'est-á-dire vagabondes、anexactes et pourtant riogoureuses から考えて行くべきことなのか、だがそう結論するのはやすぎる)  この究極的な問いとその答えは、西欧古典の書物だけに書かれているのではあるまい。「物で書かれたもの」について問われていることは、死後の魂の問題と同様に、普遍的なことなのだから。近代までアジアの思想であった朱子の読みから、アプローチできるかもしれないということ。昨日「論語塾」のあとに集まったアジア居酒屋で、子安先生の朱子の鬼神論についての話をききながら、わたしの問題意識に引きつけてこういうことをかんがえたのであった。四年かけた『仁斎論語』も来月で終わり、新しく、朱子の鬼神論を読みはじめる。‬