マルクスを読む宇野弘蔵を読む柄谷行人

マルクスを読む宇野弘蔵を読む柄谷行人


「金融資本の時代としての転化を示した後も、別に新たなる形態を展開するわけでは無い。金融資本の時代を特徴づける、株式資本の産業の普及も、純粋の資本主義社会において、すでに論理的には展開せられざるをえない」(宇野弘蔵)

あらためて宇野の文を読むと、純粋資本主義が成り立っているといわれるイギリスにおける19世紀が半ば生きていており半ば死んでいるという感じで、19世紀の『資本論』の後に生きる20世紀のわれわれがいかに『資本論』に正当性を与えるのかということにこだわった教説の知を超えるものではないとおもう。純粋とは何か?抽象的規範「こうあらねばならない」とする純粋である。再び宇野を読んだ、21世紀の柄谷行人においてみられるように、(世界帝国の構造を発見した功績にもかかわらず)、抽象的規範「こうあらねばならない」を『資本論』の上に書く自己演出のほうが大事となる。全部このテクストにに書いてあるという大前提で、柄谷の抽象的規範は、『資本論』に書いてはいない"国家"の役割を再発見してみせる。結局付加されているのだが。20世紀を分析するためには19世紀を分析した本には何も書かれてはいないことを証明してしまうのであるが、とにかく、はじめて私はこう読んだとばかり、グローバル世界を解釈する権力の王冠をもとうとする。現に、一定の影響力を以て、アジアの知識人たちが柄谷を読んでいるときいている。12世紀における互酬性の交換様式がいかに成り立っていたのか、国家を準備していくのかをよく説明している彼の世界帝国(中国)の教説は知的に分析されていて大変興味深い。これは、民生主義の全体において西欧にしか知の歴史が成り立たたないとするというヘーゲル世界史の解体である。だけれど、現在切実に考えなければならない問題は、『資本論』を読む<帝国の構造>の知は、21世紀の民主アジアの経験を無意味にしてしまうことはないだろうかということである。