柄谷行人のカント

1、「それ〔「目的の国」〕は現実的・経済的基盤を欠いたものではありえない。カントが「目的の国」を統整的理念としてみたことは、資本制経済への批判をはらんでいる。資本制経済は「他者の人格における人間性を目的として扱う」ということを致命的に不可能にするからである」(柄谷行人)。
2、確かにその通りだ。柄谷の画期的な視点はカントから語り始めた点にある。「トランスクリテイーク」は、道徳批判として資本制経済への批判をもつカントから、マルクスへ行く。カントが問題提起したこと、それは、ほかならない、マルクス資本論』に答えが書いてあるからである。
3、W-G-WとG-W-G'、この両者は、資本主義経済において相補的に存在する。グローバル資本主義の問題は、究極的に、G-G'に統合してしまうことにある。このグローバル資本主義の限界は労働力の商品化の無理に起因するが、これを解決するために、世界帝国の構造化が現実化していると見抜く。
4、そこで、(それぞれの)世界帝国における文化多元主義があたかも世界史的に正当化されているように語り出す。だけれど、柄谷行人が決定的に分からなくなるのはここからなのである。柄谷のカントから語りはじめたその画期的な視点は一体どこへ消えてしまったのだろうか?柄谷がいう帝国の構造におけるような文化多元主義もまた、「他者の人格における人間性を目的として扱う」ことを不可能としてしまわないだろうか?政治的多元主義からはこの問題が問われるべきなのである。