MEMO

Picaso se posait aussi beaucoup cette question; jusqu'où puis-je aller dans la penture? Quand ils en avaient marre de peindre des paysages, il ne restait plus aux peintres qu'à se peinde eux-mêmes. Le cinéma étant un peu autre chose , ne pouvant pas se faire seul, on peut toujours montrer ce qu'il y a autour de cette solitude.J'ai toujours pensé que le cinéma était un instrument de pensée  (Godard)


ピカソもまた、絵画において自分はどこまで行くことができるのか?とよくみずからに問うた。画家が風景を描くことにうんざりしたとき、画家に残されていることはもはや自分自身を描くことでしかなかったのだ。映画はこれとはいささか異なり、ひとりで作ることはできないので、つねにその孤独な人間の周りにあるものを示すことができるのだ。わたしはずっと映画は思考手段だと考えてきた。


ロンドンでみた、画期的なバタイユ展。「ドキュマン」誌刊行によって、シューレアリズ運動の中心をなす、バタイユの影響圏に、エイゼンシュタインは向かっていきました。ローマ時代のコインの肖像、マスク、動物の表情。「顔」に関する宇宙論的探求は、人間を中心とした従来のモンタージュ理論の「知」には収まらない、神秘主義のなにか他の惑星の異生物と交信している自動筆記的な方法でありました。シューレアリズの哲学が、限りなく、(対極の側にあるとされる)「唯物論的弁証論」に接近していくのは、この哲学は方法を重んじる神秘主義弁証法であることによってです。つまり、哲学自身がすべての内的矛盾を承認することが可能となる弁証法となるから。人間から出発するという間違いをおかしてもまた、母国語から出発するという間違いから出発しても同一的なものは存在しません。世界は弁証法的に・・・


人間が人間であるときに人間であるのはなぜなのか?

 動物が動物であるときに動物であるのはなぜなのか?

 人間が人間であるときに動物であるのはなぜなのか?


 ひとが母国語で書いているとき母国語で書いているのはなぜなのか?

ひとが外国語で書いているとき外国語で書いているのはなぜなのか?

ひとが母国語で書いているとき外国語で書いているのはなぜなのか?