MEMO

Picaso se posait aussi beaucoup cette question; jusqu'où puis-je aller dans la penture? Quand ils en avaient marre de peindre des paysages, il ne restait plus aux peintres qu'à se peinde eux-mêmes. Le cinéma étant un peu autre chose , ne pouvant pas se faire seul, on peut toujours montrer ce qu'il y a autour de cette solitude.J'ai toujours pensé que le cinéma était un instrument de pensée  (Godard)


ピカソもまた、絵画において自分はどこまで行くことができるのか?とよくみずからに問うた。画家が風景を描くことにうんざりしたとき、画家に残されていることはもはや自分自身を描くことでしかなかったのだ。映画はこれとはいささか異なり、ひとりで作ることはできないので、つねにその孤独な人間の周りにあるものを示すことができるのだ。わたしはずっと映画は思考手段だと考えてきた。


ロンドンでみた、画期的なバタイユ展。「ドキュマン」誌刊行によって、シューレアリズ運動の中心をなす、バタイユの影響圏に、エイゼンシュタインは向かっていきました。ローマ時代のコインの肖像、マスク、動物の表情。「顔」に関する宇宙論的探求は、人間を中心とした従来のモンタージュ理論の「知」には収まらない、神秘主義のなにか他の惑星の異生物と交信している自動筆記的な方法でありました。シューレアリズの哲学が、限りなく、(対極の側にあるとされる)「唯物論的弁証論」に接近していくのは、この哲学は方法を重んじる神秘主義弁証法であることによってです。つまり、哲学自身がすべての内的矛盾を承認することが可能となる弁証法となるから。人間から出発するという間違いをおかしてもまた、母国語から出発するという間違いから出発しても同一的なものは存在しません。世界は弁証法的に・・・


人間が人間であるときに人間であるのはなぜなのか?

 動物が動物であるときに動物であるのはなぜなのか?

 人間が人間であるときに動物であるのはなぜなのか?


 ひとが母国語で書いているとき母国語で書いているのはなぜなのか?

ひとが外国語で書いているとき外国語で書いているのはなぜなのか?

ひとが母国語で書いているとき外国語で書いているのはなぜなのか?


‪(推敲中) 経済学が、学問として起ったのは、16、7世紀の西欧諸国、ことにイギリスであったという。富の研究の如く教説的に富の源泉を農業あるいは金とすると、絶対主義がそれほど豊かになっていないという事実を十分説明できるだろうか。(そもそも重農主義重商主義、この両者はそれほど違いがあるのかという問題が構造主義的に問われようが。) 経済学が経済学となるためには、理念性が要請される。国富の増加を為す労働を指示するのは、理念であり経験知である‬。価値の生産は労働の価値によるのである。


大胆にも、大島渚は自らがヌーヴェルヴァーグに十年先行できた理由として、フランスと比べて早く日本で共産党の権威の失墜が起きたからだと看破した。大島に承諾するかは別として、やはり次のことを考えなければならない。公的なものを語る純粋理性としてのコミュニズムの自己否定はその反対物、極端に純化された私的なものへ行く。それは、文字を持つ者が投射する(どこの世界にも存在しないような)文字なき社会の如く表象されるところがある。( 例えば転向した?網野のアジールとしてのマーケット的世界。) 反論があるかもしれないが、パレスチナから帰還した80年代以降のゴダール映画をみると、ゴダール純化された私的な感覚への埋没を隠蔽しているとおもう。たしかに映画は多様になったが、その代償を支払わなくてはなるまい。2000年代の「ソーシアリスム」からは単純だが、この時代は分裂した公的なものと私的なものとが互いに憂鬱に葛藤している。



‪31歳の首相誕生に驚いたのではなく、その若さで難民排除の教説に絡み取られてしまったかと驚いてしまいました。モーツアルト魔笛」に仄めかされたオーストリアの権力構造の非合理への依存性の謎は指摘されます。(聞くところによると、知識なくとも若いというだけで東大出身ならば権力をもってしまう非合理も気持ち悪いのですけれど)


安倍自民党民主党政権の混乱を繰り返すなと訴えている。現在に繋がる話として、現野党に政権を任せたときの混乱のことだけが言われる。しかし問題としているその混乱に対して自分達の野党としての責任は無かったのだろうか。自民党が野党としての責任を果たせば防げ得た混乱ではなかったというのか?


物自体

表象が物に帰属させられてはいないこと、つまり多様性が予め結合したかたちで主観に与えられてはいないことこそが、他人との諸表象のやり取りを常に可能にする。なぜなら主観はどのように触発されるかによっては規定されず、表象を合成することにおいて自らを規定しているのだから。

-カントの人間学-


‪解釈者は、解釈する権力を以て、(予期できぬ事件の可能性を排して)、解釈されている世界に介入している。政府からの中立性をやめてしまっているのに、解釈した世界からの中立性を保っているかの如く振る舞っている。



‪21世紀の社会主義者はいよいよ解釈者として現れてきた。解釈者は、解釈する権力を以て、(予期できぬ事件の可能性を排して)、解釈されている世界に介入している。政府からの中立性をやめてしまっているのに、解釈した世界からの中立性を保っているかの如く振る舞うマスコミに対して、言論の自由を消滅させないのが、対抗メディアのネットである。だが国家は容赦無くこれを封じ込める口実として、「どんな思想も歴史に条件づけられなければ抽象に陥る」という解釈を呼び出す。その歴史は国家が解釈して書く。解釈をつくる権力を取り返せ。と、民の抗議の声は消される。国家は国家を語る解釈にしか存在しなくなるほどである。国家を自己同一的に語る解釈のなかに、経済的自由を称賛する言葉が反復されるが、政治的自由の意味について語る批判がどこにもない。


北朝鮮に対する日米の武力威嚇の事実を以て憲法違反であると指摘しなければならない。立憲民主党に票をいれる。あとの一票は、安倍政権を追求した社民か共産党に。‬


ファシストにとっては救いの台風、民主主義にとっては試練の台風


単純に投票すればいいこと、無理とおもえば今回は棄権すればいいだけのこと。つぎに投票すればよい


‪危ないあぶない表象なのだが、やりたい放題のトランプ大統領と比べると、習近平が随分まともにみえる。トランプと習近平に圧倒されぬためにも、安倍ぐらいでないと駄目だ。そうしてみんな、安倍みたいになりたいと憧れている限り彼を捨てれない。問題は三極構造にある‬


安倍晋三が国会で為すべきことをだんだんやらなくなってきたと指摘されます。この事実は、もっぱら、彼のスキャンダル隠しで説明されることなのでしょうか?日本会議が政治に何をしたいのか、安倍が何をしたいのかを議論するときがいまなのかもしれません