仁斎論語

‪「詩人にとって重要なことは自らを葬るということだけではなく、葬ってしまった自らの死をどのように処理するか、ということにまで及んでいる。」‬(‪寺山修司)。この言葉を読んでこんなことを思った。人は葬られた後に、なにも語らない動物と同じように、魂のなかですら言葉を語ることができないとしたら、人間というのはなんて惨めで孤立した無意味な存在なのだろうかと。全体的に、人間が意味ある存在である以上、人は魂のなかにおいて語ることができるはずなのである。そうすると、半ば死んだ半ば生きている幽霊になるのは不可避的なことになるのかしらという疑問が起きてくる。だけれど、この場合、孔子の言葉にあるように、鬼神(死者あるいは死者の霊、日本の「鬼」ではない)は敬して遠ざけられ、死後は知の対象となされるべきではない。そうして無鬼論をとったからといって、人間(生者)の存在を無意味にすることにはならない。これは『論語』が次に言っているとおりである。「季路、鬼神に事(つか)えんことを問う。子曰く、未だ人に能く事うることあたわず、焉んぞ能く鬼に事えん。敢えて死を問う。曰く、未だ生を知らず、焉んぞ死を知らん。」『思想史家が読む論語』の説明によると、注目されるのは、鬼神や死後について語らなかったゆえに、仁斎は孔子を群聖に賢(まさ)るとしていることである。」という。‬宇宙に遍在する鬼神の独白のことを考える必要がない。というか、自然は鬼神化されてとらえられてはいないのである。仁斎が初めてこのことを言ったのである。