MEMO

‪「季康子、政を孔子に問う。孔子対えて曰く、政は正なり。子、師(ひき)いるに正を以てせば、孰(たれ)か敢えて正しからざらん」(『論語』顔淵)

「政は正なり」(『論語』)というとき、正されるのは、安倍首相の私物となってしまった政治の逸脱である。不公平にも野党の質問時間をとりあげるつもりか?それは民がもとめる「正」だろうか。自民党の質問から、安倍政治の正しさを押しつけてくることは「正なり」とはいえない。


遡ると、古代朝鮮の知識人は豊かな学問をこの国に与えてくれたのに、この国は彼らに何を与えたか?朝鮮儒学の歴史は侵略の歴史でもある。先週の「仁斎とともに読む論語」の最終講義の後で話題になったことで、判決について軽々しく言えないのだけれど、それを沈黙させることになるほどの、怨みを超える怨みの原因をつくってきたのは、ほかならない、自分が生きているこの国じゃないかとおもう


‪‪大井町の隠れ里的レストランで、もし魂があるとして、それが消滅しないとしたら、その究極の住処はどこなのか?言葉なのかしら?東西の中世と近世の考え方を喋っていたら、こちらの全然話を聞いていないと思っていた相手から、「あなたの話には死がない」と反撃される。たしかに、そうだ。死の問題はファシズムの時代の知識人(三木清とか)が初めて考えることになった時間に属する問題なのかもしれない‬


学生時代は労働法ゼミにいた。丸山批判より三木や和辻がリアルだった。労働法が労働法として成り立つ為には、労働法はマルクスからの出発をもつ倫理学に取り組むべきだと教授は言う。倫理学とは何かわからなかったので驚いたことを思い出した。解体<日本思想>のことだったんだな


‪‪現在の若者が勉強してきた教科書の量は40年前のと比べて半分になっているという。これが、安倍自民党の裏側にあるバンダリズム(vandalism)を見抜けない原因の一つを為しているのかもしれない。人として学びを充実させ、読むことが大切。かれらと知を共有するためには、いつどこで、どうしたらいいものか‬


‪‪カタルーニャの間違いかもしれないが民主主義が愛する非暴力抵抗をやってみた人びともいれば、「武士の国」(トランプ)で正しい国威発揚避難訓練に突き動かされる、民主主義から愛されない人びともいる‬


高橋源一郎さんは「安倍さんの国じゃない、僕らの国なんだよ!!!」という。わたしならばこう言う。「国をつくりなおそうと一生懸命になればなるほど、安倍さんの国になっちゃうんだよ」‬


バロック芸術は、反宗教改革の<16世紀>と絶対王制確立の<18世紀>の間にやってくる。天と地の間を人が往来するこの時代に、宗教戦争の勃発と政治権力の移行が同時に起きた。芸術は後から来るがルネサンスの復活に非ず。宗教と政治の重力から束縛されぬ、アートは前へ進む。権力から自立できるか‬


寸劇 宇宙戦艦日本会議


財界「レーダーで、トランプ圏から未確認物体が凄い速度で迫ってきています」

シンゾー艦長「未確認物体ではわからん!ミサイルか!?」

財界「映像を出します」

シンゾー艦長「二国間通商協議だ!こいつはアベノミックスより酷い!全力で逃げろ、全滅させられるぞ!!」


‪‪‪武器商人の大統領さんから

同盟国といわれて、

そんなに嬉しい?

アジアで戦争が起きないかと

商売が追いかけてくる


問題なのは、私たち日本人が、このふつうの人間(天皇裕仁)が、私たちを戦争に追いやり、アジアの人びとを苦しみの底におとし入れたえらいさんのひとりであることを、彼があまりにもふつうの人間であるがゆえに忘れ始めたことだ。

小田実『市民の暦』1973


‪1. Ne pas commencer par le début‬

‪2. Ne pas voir "Ulysse" comme un roman qu'il FAUT avoir lu‬

‪3. Ne pas chercher à élucider toutes les allusions‬

‪4. Le lire en anglais... si possible !‬

‪5. Comparer ses échecs de lecture et leur trouver des points communs‬


「全然意識の入っていない純客観的現実というものは実際にはないし、また逆に意識というものも、実は現実のある特殊な現われ方に過ぎない。」井筒『イスラーム哲学の原像』


「全然意識の入っていない純客観的現実というものは実際にはないし、また逆に意識というものも、実は現実のある特殊な現われ方に過ぎない。」井筒『イスラーム哲学の原像』


これはすごい言葉だな。高校生のときに買った本だったが、全然わからなかった。ただ、「意識」にアプローチする哲学ついて関心をもつことになった。当時は本屋さんにまだサルトルの本が置かれていたので、サルトルがいう「意識」との関係も考えたいと思っていたのだけれど。今は便利なことに、ネット上で本書の説明としてこうある。そうだったんだ(笑)。福沢諭吉に顕著な明治の近代は伝統との連続性を断ち切ったが、アラブ世界の近代化・ヨーロッパ化は、どうも、イスラムの伝統を保ちながら行われたのである。

イスラーム世界はいま激しく自己を主張しているが、それらの動きがどのような精神的基盤に支えられているのかは明らかではない。本書はイスラーム的思惟の一つの根元的形態を、「存在一性論の形而上学」として捉え、その理論的構造を分析する。この形而上学に結晶しているものは一神教イスラームに独特の思惟形態であるが、同時に東洋の哲学の基本的パターンでもある。」


紫禁城というのは、天理をうつす宇宙の鏡。ここに皇帝的帝国が成り立っていたということらしい。中国共産党は決してここから離れないのは謎だったが、紫禁城貸切りのトランプの「おもてなし」によっては、米中の接近が実現、安倍政権の敗北がいきなりきまるかも。天の罰か(笑)


「繰り返すが、『帝国の慰安婦』は、歴史書というよりは歴史をめぐる言説を分析した「メタ歴史書」である。韓国と日本の異なる読者を対象に書かれ、一つの「真実」自体より目の前にある「真実」(対象・状況)らしきものと「どのように」向きあうべきかを模索した理由でもある。必要に応じて「事実」に接近しうるように努力したが、それ以上に、その「事実」をめぐって対立している人々がお互いをもっと深く理解し合えることを目指しながら書いた本なのである。接点を見いだすべく両国の政府と支援団体を批判したが、慰安婦に関しては否定も批判もしなかった。」


世論調査ですが、どちらの質問の仕方がより中立的だったでしょうか?あえてわたしはノーコメント


朝日新聞の質問の仕方「自民党は、国会での野党の質問時間を今よりも減らし、与党の時間を増やすことを提案しています。こうした自民党の提案に賛成ですか。反対ですか。」


NHKの質問の仕方「自民党は、野党に多く配分されている国会の質問時間を、議席数に応じて見直すよう求めていますが、野党側は反対しています。国会の質問時間はどうあるべきだと思うか」


人間はメシも食わず、眠りもしないで、悲しんでいられるわけはない。私はここで、まずタキ火をおこし、あたたまり、たらふく食ってから、あらためて死んだ同僚の死をなげき悲しんだオデュセウス一行のことのありようを淡々と書きしるしたホメロスは、やはり、偉大だと思うのである。

小田実『二つの世の中』73


バロック絵画は仮面。権力の暗闇の中心に立つ。沈黙する映像の傍らで、解釈する権力を委ねられて、盲目的に言葉は自らを語り紡ぐ。そうして確立した部屋の中にあって出口が見えない。どんな表象が如何なる言説にあるか?と書く画家は躊躇うだけだ、背後から、暗闇から暗闇を奪う光に突き刺される時まで...


バロック絵画は仮面。権力の暗闇の中心に立つ。沈黙する映像の傍らで、解釈する権力を委ねられて、盲目的に言葉は自らを語り紡ぐ。そうして確立した部屋の中にあって出口が見えない。どんな表象が如何なる言説にあるか?と書く画家は躊躇うだけだ、背後から、暗闇から暗闇を奪う光に突き刺される時まで...


道具をきちんと使えず虫歯だらけであるわたしがこの歯ブラシで歯磨きができないのはどうしてかというと、水に濡れていてスイッチがはいらないことによるが、こいつが深夜にいきなりブ・ブーンと唸るときはびっくりする。先祖が囁いているのかと諦めてずっとベッドできいている


‪模倣を模倣する


ゴルフ場の安倍は「この道しかない」と必死で急坂を登るとき、ただ登るのではなく、「安倍の道」に魂と財産と生命の全てを委ねようとする日本人を見事に模倣していた。この国の人々は、何が起きてもアメリカにくっついていく安倍を模倣している。何が起きても安倍自民党を支持する。だから安倍は模倣の模倣なのだ‬


憲法的なものとはなにか?


憲法的なものとしての国体論があって、ここから、祭政一致の祭祀的国家と国家神道が成り立っていった、と、子安氏は指摘している。敗戦後、大日本帝国憲法が終わった。だが超憲法的なものもいっしょに消滅したのだろうか?消滅したかもしれないが、消滅し切ったといえるだろうか?超憲法的なものは、半ば死んでおり半ば生きているというような形で存続しているかもしれない。超憲法的なものがあるならば、憲法は病んでいるのである。このことは、法の視点だけではみえてこない。倫理学の視点をともなわなくてはみえない(言説化できない)。ここからどういうことが起きてくるのか?再び、国家神道が戦前そのままの形で復活することはないだろう。同じことは繰り返されないからだ。問題は、戦後の国家神道は、'立憲民主主義の価値'みたいに(!)、多様な思想・信仰の共存のための枠組みと無矛盾である言説を展開しようとすれば、超憲法的なものに依り所をもつことになるであろうという点だ。憲法を改正する必要もない。超憲法的にいえば、祭祀国家が主宰するものは如何なる宗教を超えた高さにあると教えてくる危険がある。戦前からの連続性を夢みるナショナリズム、夢みる国家にとって、目覚めは死である。超憲法的なものを絶えず発明することをやめない。こんな歴史の悪夢から目覚めたいのだけれど


‪国家の樹木に書き記された名は、「思想家」の名というよりは作者の名前。その名から、他の人々とは異なる超越的存在と彼の言説を読まなければならないとしたら。彼が話すとき同一反復的に意味が増殖する。作者の名前は、他からの学びを排除しきった「教える」体制の住処である‬ 


日本会議靖国神社歴史修正主義、国体的教育勅語という起源に向かう保守主義は有害でしかない。少なくとも、小池的のテレビ保守主義には、起源からの漸進的離脱の意味がある。‪ポピュリスムは‬最初からだれに対しても責任なんかないのだから辞める必要もなかっただろう。ただしこのポストモダン保守主義の俗物化は、過去が半ば生き半ば死んでいて、なんというのか、われわれ大衆の希望はそこで病んでいる。自民党は終わらないし


‪『ユダヤ人問題』を考える。否定の果てに行う内部の二重化は、否定する形式に拠って行うから宗教的である。マルクスは、再び内部に絡み取られないように、『ドイツイデオロギー』で交通概念へ行く。これは、オリジナル(起源)批判の70年代に、ボードリヤールにおいてポストモダン的に考えられることになった。私はこうした仕事を読んだのは、差異としての形象が問題となってきた80年代のときだった。何とかこれを外部の問題として考えるようになったが、この思考は、歴史の条件が問われることになった90年代においてであった。‬そのあと言説は、ポストコロニアリズム(70年代に遡る)、マルチチュード論と帝国論へと移っていった。外部の思考はこれらの言説との関係で再構成されていったが、挫折ばかりしている。現在は東アジアの問題に即して考えようとしている。思考は「滑らかな空間」を住処としているが、本当にそれほど"滑らか"なのだろうか?


ユダヤ人問題』を考える。否定の果てに行う内部の二重化は、否定する形式に拠って行うから宗教的である。マルクスは、再び内部に絡み取られないように、『ドイツイデオロギー』で交通概念へ行く。これは、70年代にボードリヤールにおいてポストモダン的に考えらることになった


Comment la « Neuvième Symphonie » de Ludwig van Beethoven est-elle devenue quasiment un second hymne national au Japon ? Retour sur des épisodes méconnus du premier conflit mondial.

- Le Monde diplomatique


ベートーヴェン"第 九 交響曲"を国歌にしてしまえ


日本会議靖国神社歴史修正主義、国体的教育勅語という起源に向かう保守主義は有害でしかない。少なくとも、小池的のテレビ保守主義には、起源からの漸進的離脱の意味がある。‪ポピュリスムは‬最初からだれに対しても責任なんかないのだから辞める必要もなかっただろう。ただしこのポストモダン保守主義の俗物化は、過去が半ば生き半ば死んでいて、なんというのか、われわれ大衆の希望はそこで病んでいる。自民党は終わらないし


駅には列というものがない。電車が到着するとバラバラに中にはいる。降りているのに、かまわずはいってくる。なんだろう?イタリア映画のなかを移動しているような楽しい気分



‪ラズモスキーといえば、ベートーベン弦楽四重奏の中期。ラズモスキー宮殿の近くに、ウィットゲンシュタインの論理的「家」があった。建築物が人間の住処であるように、空間が論理の住処である。沈黙するといいながら盲目的に語る言葉。表現しているというが沈黙する映像。問われてくるのは、単なる真偽の真でなく、倫理的な問題を構成すること。実のある真はことばにすんでいるか、このことが探求された‬とわたしは理解しているのだけれど


‪大まかにいうと、「話し言葉」とは、相手と向かい合って話す時に使う言葉。一方、「書き言葉」とは、何度も読み返すことを想定した文章に使われる言葉である。近代ヨーロッパ語は、古典ギリシャ語とラテン語の文法性から規定されていなければ高度な思想を表現できなかったと考えられる。子安先生の話によると、同様に、徳川ジャパンの日本語は古典の中国語に負う。17世紀の仁斎の訓みは、朱子の中国語を見上げることがなければ高度な思想を表現できなかったと考えてみようというのである。そこから何がみえるか?まだわからない。ただ面白いことに、この類比(アナロジー)は、関係と関係が関係している様子を抽象的に言い表している。<もの>(古典語)と<もの>(近代語)との関係が、<もの>(古典語)と<もの>(近世語)との関係にたいして<こと>的に関係しているというか‬。


‪全体国家と関係がある?国家祭祀を主宰する超憲法的なものは、どこから来たのか、死後どこへ行くのかを教えてくるのだろう。それに絡みとられたら‬...

‪「全体国家は、見境もなくあらゆる分野に、人間実存のあらゆる分野に入り込み、国家から自由な領域を全然知らないような国家なのである。というのは、この類いの全体国家は、絶対に何ものをも判別などできない国家だからである」(C・シュミット)‬



思想の歴史で語らなければならないのは、暗さ(津田の思想空間の中におけるパラドックスの解決)についてではなく、明治維新象徴天皇制の記述を通じてあきらかにする以上のものを隠している、見かけだけ明るい、いささか混濁した光 (1916年に『文学に現れたる我が国民思想の研究』を書いたこと)についてとなるであろう。