和辻倫理学の問題

‪和辻倫理学マルクスから始まったことは、彼の『人間学としての倫理学』以降の倫理学的著述においてはまったく消されてしまっている。マルクスの社会的存在としての人間も、間柄的存在としての人間という和辻倫理学的な人間存在となる。それとともにあの始まりのマルクスも、「人間の学」としての倫理学史の末尾の章を構成する終わりのマルクスとなる。論文「倫理学」は和辻自身によっても棄てられるのである。彼はこれを己の公的著述に数えあげることはしないのである。だがそこに一たびマルクスとともに記した「人間の社会的存在の倫理学たらざるを得ない」という言葉は決して消すことはできない。それは隠された主導因として、和辻倫理学の昭和<近代>における独自の形成をひそかに支配し続けたと私は見ている。‬

‪「この書とほぼ同じような考は、曾て昭和六年に岩波哲学講座の『倫理学』に於て述べたことがある。この書に於ても前著と同じ材料を少なからず用いたが、しかしここでは全体に恒って新しく考えなほし、また新しい組み立てによって叙述しなほした」と、和辻は『人間の学としての倫理学』の「序」に記している。論文「倫理学」と重なるところがあっても、『人間の学』は新しい出発だと和辻はいっているのである。たしかに『人間の学』はもはやマルクスから始まることはしない。それは「倫理とは何であるのか」という問いとともに始まるのである。この問いからの出発こそ、己の倫理学の本当の出発だと和辻はするだろう。だから『人間の学』こそ東大倫理学教授和辻哲郎のデビューの書とされるのである。だがこれはマルクスからの始まりを隠した再度の出発であったのだ。」(子安宣邦『和辻倫理学を読むーもう一つの「近代の超克」p.68から抜粋)‬ ‪


和辻哲郎は、人間を自然対象として他の自然物と同一の資格において考えることは限界に直面するということをはっきり考えることができた。和辻は三木清に負う。和辻は倫理学を構成するときマルクスからの出発という画期的な視点をもっていたのに、(そのことによって、「倫理学は自然の学ではなくして人間の学である」ことを獲得できたかもしれないというのに)、再びアリストテレスという規範的始源からはじめてしまったのであった。自然学によって惹き起こされた思考不可能なものを思考するためには、再び自然学に依拠することは倫理的に不可能なのである。問題は、ここにある。「和辻倫理学マルクスから始まったことは、彼の『人間の学としての倫理学』以降の倫理学的な著述においてはまったく消されてしまっている。」(子安宣邦 2010) だけれど痕跡はかならずのこる。「マルクスからの始まりを隠した再度の出発」はなにか空ろな思想なのである。他者マルクスを隠蔽したその代償とは、「文化」という偶像的包摂のもとに、「人間の本質は社会的関係の総体」(マルクス)を自然物と同一化してしまっていく点にあったのではなかっただろうか。‬‬これと同じことだが、近代の限界に立って、そこで、ただ「もう一つの近代」を作り出しているだけではなかったか。