まだ、いったいだれが本居宣長をナショナリストだと言っているのだろう?ここで宣長は、古えの心を知るためには古代の言葉を読む必要があるといっているだけだ。ここから問題となってくるパラドックスとは、魂(タマシヒ)がすんでいる、言いかえれば、古代の言葉がすんでいるその「古事記」には、漢字のほかの言葉が記されていないという事実だ。そこで、宣長の「『天地』はこう読めるんじゃないの」という、当時彼がはじめて言い出した彼の合理的解釈に頼るしかないわけで、そうである限り、「霊=心?」というのは、一生懸命学問しなければならない(「国威発揚」に向かってハッスルなんかしている暇がないよな。)たしかに、古典は喚起されるものとして存在する。文字しかないところからほんとうに他者の声を読めるのだろうか?絶えず内側から聞こえてくる小さな声は近代という現在の声に過ぎないのではないか?と、このように問う終わりなき問いかけは、意味のないことではない。自身を思考の対象にできるという意味で人間的であるとおもう。