『ユリシーズ』

「どこで書かれたのか?」という問題は、近代文学にとってはどうでもいい話である。文学を読み解くヒントとしてそんな場所の話を口にするだけでも恥ずかしいのである。ジョイス『ユリシーズ』は、近代文学に毒された日本の読者にとっては、ダブリンを舞台にした小説だと知っていれば十分である。逆に、アメリカ人ならば、7年間かけて書き上げられらたオーストラリア-ハンガリー帝国時代の(現在イタリアの)トリエステを訪ねて行ってきた後に、その位置を地図で指差せば己の知識に王冠を授けると同じくらいの効果があるらしい。そういう私も、アリタリア航空で便利に安くトリエステに行けることになったから、行くつもりである。実現すれば三度めの訪問となる。交通的な問題で色々リスクのある旅となるかもしれないが、ウイーンとの距離について、その距離の意味も含めて、考えなければならないとおもっている。(ちなみにフロイトトリエステに来ていた。トリエステはヨーロッパの端と表象されていたから、ここから精神分析の言説がはじまったと言ってみ言い過ぎではない。トリエステに来なければ、フロイトの普遍主義が住処にしていたルネサンスのモーゼが分裂することはなかったかもしれないーギリシャヘブライの間で。) トリエステのジョイスは東欧ユダヤ人の文学仲間がいた。カフカの原稿コピーを読んでいた可能性も指摘される。ユダヤ的なものへの大きな関心は、妻ノラのピリオドなき手紙を利用して、挿話「ペネロペ」を書いたことにも現れているという。文学の書き方への影響関係は定かではないが、これについては、私が勝手に考えていることもある。ピリオドとは本質的にモナドつまり無限なのである。モナドは身体を住処としてるが、精神の眼でしかこれをみることができない。ここに、読者はジョイスの文のモナド-点を見ることができない理由がある。ただ文だけは運動の線として無限を突き抜けるのだ。どのページも運動の痕跡を残している。と、バロック変態的に妄想しているのだけれど、なにか?